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2011-12-13

プロ野球「悲運の闘将」・西本幸雄

2011年12月13日

 信念と愛情で選手と心をつないだ頑固おやじ―。「悲運の闘将」と呼ばれた西本幸雄はオーナーとの衝突も辞さない熱血漢だった。大毎監督に就任した1960年、いきなりリーグ優勝を果たす。しかし、三原脩率いる大洋との日本シリーズ第2戦、好機で仕掛けたスクイズの采配を巡り、当時の永田雅一オーナーと衝突したことが原因で退団。就任1年目でリーグ優勝しながら、監督を降りたのは長いプロ野球史のなかで西本しかいない。 
 1920年4月、和歌山市に生まれた。父親は銀行員。旧制和歌山中学から立教大へ進み、東京六大学野球では名一塁手としてならしたが、学徒出陣により1943年秋に応召。中国で終戦を迎え、復員後は八幡製鉄、全京都、別府星野組と社会人チームを渡り歩いた。別府星野組時代の1949年に監督兼選手として第20回都市対抗野球で優勝を果たし、その翌年、ロッテの前身、毎日に選手として入団した。すでに30歳で、選手としてのピークは過ぎていたが、一塁手として活躍し、主将も務めた。
 わずか1年で退任することになった大毎監督の後は、1962年に「灰色の時代」とまで言われた弱小球団、阪急のコーチに就任。翌年、監督に就くと、長年染みついた負け犬根性を一掃しようと、キャッチボールのやり方からの徹底指導に着手したが、就任1年目は最下位。その後も64年の2位が最高でBクラスという状況だったが、66年秋季キャンプ以降、選手やフロントから “一任” を取り付けると、信念通りに鍛えていった。

 「強くなるには練習しかない。努力すれば、いつかは必ず報われる」が信条。この一心で、67年に球団創設32年目で悲願のリーグ優勝を果たすと、5度の優勝で阪急を常勝軍団に育て上げた。しかし日本シリーズでは勝てなかった。5度とも巨人に敗退。1974年から指揮を執った近鉄では79、80とリーグ連覇したものの、このときはいずれも広島に敗れた。

 ついに日本一の座にはつけなかったが、あと一歩のところまで迫ったことがある。中でも最も日本一に近づいたのは79年の広島との日本シリーズだった。第7戦。マウンドには当時広島の抑え投手だった江夏がいた。その江夏は九回無死満塁という絶体絶命のピンチを切り抜けて胴上げ投手になる。このときの1死満塁からとっさに投げた高めのカーブでスクイズを外すなどの一連の場面は「江夏の21球」として語り継がれている。

 監督歴20年。パ・リーグ一筋で、リーグ優勝8度はプロ野球歴代監督の中で4番目。野球殿堂入りも果たした。日本シリーズではたびたびの「悲運」に、頂点に立つことはかなわなかったが、「8度も出場できたんやから、こんな幸せ者はおらんやろ」が口癖だった。ユニホームを脱いだあとも山田久志、鈴木啓示、梨田昌孝らかつての教え子たちに慕われた。2011年11月、91歳で死去。万年最下位チームを常勝球団に仕立て上げるため、野球の厳しさをたたき込み、ときには鉄拳を浴びせることもあったが、そこには愛情があったという。=敬称略(昌)