プロ野球・稲尾和久
2011年11月29日
7回、ボールを拾うおうとしたときのことだった。思うように握れない。握力は限界に達していた。それでも稲尾和久は、残り3回を投げきった。9回に1点を失ったものの、2試合連続の完投勝利で、西鉄ライオンズ(現西武)を日本一へと導く。1958年10月、巨人を相手にプロ野球の日本一を争った日本シリーズ第7戦でのことだった。
この日本シリーズでの稲尾の活躍は目を見張るものがあった。第1戦は4回3失点で降板したが、第3戦で好投。ただし0―1でまたも敗戦。3連敗で後が無くなった西鉄は第4戦も稲尾を先発させて勝利する。第5戦は4回からリリーフ。そして第6、7戦で先発完投という大車輪の活躍に、「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれた。
1937年6月、大分県別府市に7人兄弟の末っ子として生まれる。幼い頃から漁師の父親に連れられて漁へ。人並み外れたバランス感覚が養われていった。その後、都市対抗野球で全国制覇した別府星野組にあこがれて野球を始めた少年は、中学時代や高校入学当初は捕手。だが、その強肩が目にとまり、投手へと転向する。ただし高校時代は目立った実績はなく、1956年、別府緑丘高校から西鉄へと、何とかプロ入りを果たしたものの、全く注目されていなかった。キャンプで務めたバッティングピッチャーやオープン戦での好投で徐々に注目を集め、開幕1軍を果たすと、1年目でいきなり21勝6敗、防御率1.06。新人王を獲得してしまった。翌1957年にはプロ野球記録となるシーズン20連勝を記録するなど、35勝を挙げて史上最年少でのリーグMVP。1958年も33勝で史上初の2年連続MVPに選出される。そして迎えた日本シリーズでの快投だった。このときの7戦で6試合に登板し、なおかつ4連投という “酷使” について、後年、当時の監督、三原脩が病床に見舞いに訪れた稲尾に4連投を強いたことを詫びると、「当時は投げられるだけでうれしかった」と答えたという。
稲尾は1959年も30勝を挙げ、史上唯一の3年連続30勝を記録。中西太、豊田泰光、大下弘らとともに3年連続日本一(1956〜58年)を達成し、「野武士軍団」と呼ばれた西鉄の黄金期を築く。プロ14シーズンで276勝137敗、防御率1.98。145キロを超えるストレートと鋭いカーブなどを武器に、勝負球から逆算して配球を組み立てていく頭脳的なピッチングとコントロールで打者を翻弄した稲尾。だが、何よりも気持ちの大切さを認識していた。日本シリーズでの4連投を振り返り、「どんなにすごい体力を持っていても、どんなに素晴らしい技術があっても、それを活かしているのは心理的なものとか、精神的なものなんです」と語ったという。=敬称略(昌)