世界トップレベルの監督が見た日本のフットボール(後半)
前回のコラムでも、日本の学校部活によるフットボール育成の限界について言及した。卒業によるチームの再編成や、指導者の確保の難しさが問題となる。そして安定したリーグ戦がないことなど、ゲーム発展の欠落した育成環境も改善が必要だろう。そして育成に対する環境整備の欠如が、秩序のないプレーにも如実にでてしまう。また勝利の必要性から、エラーを避けるプレーが連続する傾向もある。勝利を目指すのは世界共通だとしても、育成環境が足りないとゲームアイデアは発展しにくい。
来日中のバジャダレス氏が観察した育成年代の多くのチームでは、全く秩序のないフットボールが連続した。ある育成年代のフットサル大会では、大部分のチームがひたすらボールを蹴り込んでいた。とにかく高い位置でプレーしようとしていた。スペインやブラジルのようにボールを大切にする文化からすれば、残念ながら全くフットボールとして成立していなかった。
前回のコラムで述べた日本の規律文化が、この秩序のないフットボールのキーワードとして浮かんでくる。完璧までに規律のある教育による、エラーに対する恐れが存在する。そしてボールゲームの不確定要素の強さに、多くのエラーが必然的に引き起こされる。そこに日本独特のフットボール文化がある。勝利を目指すものの、ゲーム性のない戦いになってしまう。
バジャダレス氏は、リーグ戦の欠如と勝利の必要性というキーワードにも触れている。日本はリーグ戦よりもトーナメント戦の方が多いスポーツがある。フットサルもその一つである。トーナメントや得点を競うリーグ戦では、勝利することに加え得点差をつけることも重視される。そのために能力の高い選手だけを起用して、できるだけ長時間プレーさせる傾向にある。例えばスペインフットサル育成年代のスリークオーター制のような、全員を公平に出場させるルールも、まだ日本では用意されていない。ずっと座ったままの控え選手や、応援歌を歌う交代選手などもバジャダレス氏には衝撃として映ったようだ。ゆとりのないフットボール教育環境の中で、勝利にこだわるチームが多くなる現状に、多少なりとも疑問も感じていた。
個人能力の高い選手だけずっと起用し続けるという、ベンチワークの問題についても考えてみる。公式戦になるとやはり勝利を目指すことが最優先となるのが日本の傾向のようだ。スペインでは毎週サッカーやフットサルのリーグ公式戦が用意されている。そのためチームが段階的に成長することが、勝ち負けよりも大切なものとして成立する。また各クラブの大きな目標はあくまでも、優秀なクラブに選手を送り出すことや、トップチームで立派に戦えるように育て上げることでもある。そのためスペインでは、両親も子供の成長を求めてクラブを探す傾向にある。
通年の長いリーグ戦ならば、目の前の勝利に拘らずに、忍耐強く準備を重ねる時間もある。またリーグ戦のために、選手登録もシーズン中には大きく変化させないのがスペインでは一般的だ。指導者もトレーニングを積み重ねながら、同じメンバーで長い時間を忍耐強くトレーニングできる。そのような環境の背景には、通年続くリーグ戦の存在がある。試合に出場しないと、選手は成長することが難しい。育成年代に限らず、日本の選手は遠慮したり、出場することに対する意欲が低いように感じられた。日本の少年には、自己アピールや、出場したい願望があまり見えない印象があった。
『競争する目的』の意味について考えてみよう。ここまでに述べた日本のフットボール環境の中で、競争する目的とは何だろうか?育成年代における競争とは勝つことなのか?優勝トロフィーを掲げることが、競争の目的なのか?子供たちは出場できなくても、強いチームに所属することが目的なのか?両親は名門校や強いチームに子供を在籍させることで、競争しているのか?健全な競争そしてトレーニングの意味は何だろうか?上達する、向上するというスポーツ育成年代の目的を無視してよいのか?トレーニングでチームメートと競争しながらも、個人もチームも上達することが育成年代の本当の競争の目的ではないだろうか?
例えば出場しなくとも、強いチームのベンチに座ることが育成競争になるのか?上手な選手にボールを蹴り出すことが、競争目的になるのか?スペインの少年達は全員が出場しながら、長い時間をかけてフットボールを習得していく。その中で自分達のレベルに合ったクラブチームに在籍していく。そのためスペインでは各チーム内での選手のレベル差はさほどない。しかし日本では、同じチーム内でも選手間に大きなレベル差があることも、バジャダレス氏の育成概念から見ればショックとなった。
フットボール文化の根底として、指導者、審判、選手の相互刺激についても考えてみよう。日本の指導者育成は十分になされているのか?審判、指導者、選手が相互に助け合いながら成長できる環境はあるのか?その答えはリーグ戦の強弱という言葉に集約されている。スペインでは毎週末に行なわれる試合を中心に、指導者や審判もエラーしながら成長できる環境がある。また審判スクールが各都市にあり、各自の試合の反省会や学習スペースが用意されている。毎週末に各カテゴリーの試合が用意されてあれば、選手だけでなく指導者や審判の方々にとっても経験値を積みやすい環境となるだろう。
バジャダレス氏には、日本のフットサルの様々なカテゴリーと触れ合っていただいた。成人カテゴリーや、地域リーグ上部、そしてFリーグのクラブともトレーニングや講習を一緒に実施していただいた。その中でバジャダレス氏の印象に残ったことが、日本人選手たちの競争力の弱さという言葉であった。火花を散らすような、練習での選手間の厳しい要求がバジャダレス氏によれば足りないと指摘している。ここでの競争力のなさとは、トレーニング、試合の両方に共通している。マナーを大切にする日本の文化。年功序列のある日本の文化。選手たちが競争できない理由がその文化背景にあるのではないかとバジャダレス氏は考えている。ボールを奪い合う激しさのなさ、相手に対して感情的になれない事、逆境に立ち向かう姿勢という観点ではやはりスペインのエリート層に比べるとシビアさに欠けているという印象であった。
例えばファールをする行為が非常に少ない。味方選手との言い合いが練習からほぼ起こらないこと。そのため対戦相手とも言い争うこともない。スペインでは、練習から審判をつけないと喧嘩になるチームが多いだろう。そのような環境を考えれば、日本はあまりにも礼儀正しい世界に写ったようだ。全世界とも、勝ちたいという根底は同じだ。しかし『①育成プロセスの欠如』、そして大人になるカテゴリーでは、『②競争性の弱さ』をバジャダレス氏は指摘した。
スポーツとして潔くプレーするのが、日本の美しい文化背景。しかし世界と戦うには、整備された育成環境、そして日常からの競争力が必要となるだろう。体力があれば、技術が発揮できる。技術があれば、戦術を実行できる。戦うスピリットがあれば、全ての力を発揮できる。『①育成プロセスの欠如』そして『②競争性の弱さ』。この2つの問題点は、日本フットボールの課題をうまく要約しているのかも知れない。