日本のスポーツは「縮減」に値する?



 行政刷新会議の“事業仕分け”の余波は、ついにスポーツ界にも及んだ。

 国民にとってはブラックボックスだった予算決定の仕組みを公開し、ムダ遣いを徹底的に排除しようという初めての試みを、私も最初は胸のすく思いで眺めていた。しかし、JOCの選手強化事業などへの国の補助金(約27億円)が“縮減”との結論が下されたと知るや、事業仕分けへの思いは一変した。

 11月26日付の朝日新聞によれば、スポーツ関連予算の議論に要した時間はたったの30分弱。「リュージュやボブスレーなど日本で普及していない競技にも補助が必要なのか」「文科省は五輪に参加することでなく、メダルを取ることに意義があると考えているのか」といった意見が出たという。今どき「五輪に参加することで満足する国民がどれぐらいいるのか?」とボヤかずにはいられないが、11人の仕分け人のうち9人が「予算縮減」という答えを出した。

 スポーツの世界を取材する者の一人としてこの結論にはガックリきた。関係者が「スポーツへの差別だ!」と悔しがった気持ちもよくわかる。だが、11人中9人が出した結論にはそれなりの意味があるはずだ。今の日本のスポーツ界は、一般社会の人々にもわかるような“スポーツの社会的価値”を創出できていないのではないだろうか。


 私がスポーツの社会的価値について考えるようになったのは、2001年9月11日に起きたニューヨークの同時多発テロがきっかけだ。事件発生直後から米スポーツ界に支援の輪が広がったことを報道で知り、その意識の高さに驚いた。この年、ワールドシリーズを制することになるアリゾナ・ダイヤモンドバックス(当時)のベテラン、カート・シリング投手は「大リーガーみんなが1日分の給与を義援金として寄付しよう。ニューヨークがこの悲劇から抜け出すためには大金が必要だ」と同僚に呼びかけた。ニューヨークを本拠とするチームのスター選手たちはボランティア活動にも加わった。

 事件から1か月半後、私はニューヨークのマディソン・スクエア・ガーデンでNBA開幕戦を観たのだが、この試合も感動的だった。ニューヨーク・ニックスの熱狂的なファンとして知られる映画監督のスパイク・リーが、自分が所有するコートサイドの2席のうちの1席をテロの犠牲者救済基金に寄付する目的でオークションにかけたところ、匿名の人物が10万1300ドル(当時のレートで約1266万円)で落札。さらにこのチケットをテロの犠牲になった消防士の遺児(12歳の少女)にプレゼントしたのである。少女の隣に座ったスパイク・リーが、小型ビデオカメラを片手に彼女に話しかけるシーンが試合以上に印象に残った。


 このときのニューヨーク取材では、友人の仲介でNFLの国際部長にも会う機会を得たのだが、彼の言葉は今も耳にこびりついている。
 「9月11日の出来事によって、NFLの価値体系は大きな影響を受けました。寛容でなければならないこと、多様性を認めなければならないこと、他者の生き方や考え方を認めなければならないことが、より一層意識されるようになっています。フットボールは観客にプレーを見せて楽しませるのが目的ですが、今回のような事態に直面したときは“事件を乗り越え、新しい日々に向かって頑張ろう!”というシンボルになる。事件を経て、私たちの責任感は増したように思います」
 スポーツ選手は選手である以前に社会の一員である。そんな自覚を持つことが、スポーツの社会的価値を上げる最初の一歩になるように思う。


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