表彰台の敗者


 2009年12月5日。バドミントン界の新アイドル「イケシオ」を見ようと、全日本選手権が行なわれる東京・代々木の第二体育館へ出かけた。この日は、ミックスダブルスのほか、男女それぞれのシングルスとダブルスの準決勝。お目当てのペアは接戦を辛くも制し翌日の決勝に残ったが、私は、肝心のゲームよりも、ある光景に目を奪われてしまった。 
 コート二面がとられたアリーナの一角。ラリーの攻防にわき立つ会場には似つかわしくない雰囲気がそこには漂っている。見れば、準決勝で敗れた3位選手の表彰式が、ゲームのかたわらで同時進行している。はたして観客の眼中にかれの姿はあるのだろうか。哀れな3位の胸中と共に、大会主催者の事情も察した。
 
 正式の表彰式は、翌日の決勝戦後に行なわれる。1位から3位までを一緒に表彰するには、3位の選手は、そのためだけに会場まで足を運ばなくてはならない。選手が大事というなら、3位表彰のための時間と、もう少し人目につく方法がとれないものか。
 もし試合が2面同時に始められ2面同時に終わるのであれば、次の試合までのインターバルの間に、表彰のための時間とアリーナ中央付近の位置、つまり観客の視線と拍手を独占できよう。が、時間制でないバドミントンではそうもいかない。ならば、表彰の時だけでもゲームを一時中断してはどうか。しかしそれもまた、試合の流れに水をさすとの判断なのだろう…あれこれ空想していると、3位選手にいよいよ賞状が手渡されようとしたそのときだ。会場にひときわ大きな拍手がおこったのである。しかし何という皮肉、それはコート上のファインプレーに贈られた喝采であった。3位の背中は終始うなだれたままだった。

 外に出ると、昼から降り始めた雨も冷たさを増していた。それを振り払うように、今度は隣の第一体育館へ。こちらのフィギュアスケート、グランプリファイルでは、注目のキム・ヨナ(韓国)が安藤美姫を破って優勝したが、本命のライバル不在のせいか、気合い、精彩ともに欠けた。さて表彰式。1位から3位までの選手にメダルと花束、そして審判長をはじめとする競技役員までが登場、表彰台の選手ひとりひとりを祝福が包む。国旗掲揚、リンク一周のビクトリーラン、写真撮影とセレモニーは流麗に進行する。照明、音楽、洗練された演出はさすがに見事であったが、表彰台の選手らの態度もまた立派なものであった。
 オリンピックが開催される今シーズンの最後となる大舞台、誰もが、表彰台の最も高い場所を狙っていたはず。「銀メダルをとったのではない、金メダルを逃したのだ」という言葉があるように、2位以下の選手の本心に悔しさがないはずはない。
 だが、自らの不本意な結果に耐え切れず、表彰式で不敬を働いたつい最近のプロサッカー選手らとは違い、清々しい笑みでライバルを称え、観客やカメラにも健気に応じている。かれらスケーターがスポーツマンであるには、氷の上と同じか、あるいはそれ以上の演技力が表彰台でも必要とされるのだろう。

 表彰式とは、敗者にとって試練の場である。敗北の事実をあらためて突きつけられ、喜怒哀楽の素直な表出が許される競技場面とは違って、表彰式では、悔しさを笑みに換えなくてはならない。頂点をめざすアスリートは、こうした残酷を糧とする強さを備えなければならないものである。勝者は表彰式で観客に称えられ、敗者は鍛えられる。それゆえ競技団体は表彰式を、容赦なく魅惑的に挙行しなくてはならないのである。

嵯峨 寿(さが ひとし)

筑波大学准教授(レジャー・スポーツ産業論)。秋田県生まれ。筑波大学体育専門学群卒業、同大学院修了、(財)余暇開発センター研究員などを経て現職。CSRや社会貢献活動などを通じた企業とアスリートのパートーナーシップが、双方およびスポーツや社会におよぼす効果などを研究。
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