嘉納に寄せたIOC委員の尊敬


 2010年は嘉納治五郎(かのうじごろう 1860〜1938年)の生誕150周年にあたる。嘉納は柔道創設のみならず、長距離走や水泳の普及、そして1936年のIOC総会で、1940年のオリンピック開催地に東京を決定させた。しかしながら、その後の大陸での戦争が泥沼化し、東京開催は不可能との憶測がIOCに広がった。そうした中、1938年のIOCカイロ総会に出席した77歳の嘉納が、「オリンピック競技会に政治などの影響がおよんではならない」と主張し、委員たちの説得に回った。嘉納が言うのだから大丈夫だろうとの思いをもつ委員も多く、最終的に東京開催が再確認された。嘉納は教育家、柔道家として信頼されていたからだ。
 嘉納はカイロ総会の後、欧州と北米を回って旧知のIOC委員に東京支持の礼を述べ、バンクーバーから氷川丸に乗って帰国の途につく。横浜到着の3日前、不幸にも船上で逝去。訃報を知ったIOC委員たちは驚きとともに次のような哀悼の意を表した。
 
・ ラツール伯爵(IOC会長、ベルギー)
「嘉納氏は真の青年の教育者であった。我々は氏の想い出を永く座右の銘として忘れない。あたかも兵士のごとく氏は自己の義務を遂行しつつ逝った。しかし氏はもっと永く生きて生涯の夢であった東京オリンピックを見るべきであった。この東京オリンピックこそ、氏が日本のスポーツを今日の高き水準に引き上げるために費やした永年の労苦に対する報酬であった」

・ ディーム(ベルリン大会事務総長)
「氏とは1913年以来の親しい知友で全く感慨無量である。氏は世界で稀にみるスポーツ教育の総合的人格者であり、氏の逝去は日本にとってばかりでなく、世界スポーツ界、教育界にとって痛惜に堪えない」

・ ブランデージ(IOC委員 米国オリンピック委員会会長)
「嘉納氏は立派な『サムライ』であり、典型的教育家であり、そのスポーツ界に対する貢献は長く追憶されるだろう」

・ ピエトリ(IOC委員 仏国オリンピック委員会会長)
「氏は永年の私の親友である。氏はカイロ総会で最大の難事とされていた東京・札幌両大会獲得のため非常な過労を強いられ、ほとんど独力でこの難関を克服していた。日本国民は氏の真摯なしかも勇敢な努力に対して深く感謝しなければならない」

・ アバーデア卿(IOC 委員 英国オリンピック委員会)
「私はかかる素晴らしい人物に会った喜びを記憶から消し去ることはしまい。かつて当時75,6歳であった氏が、わずか一分足らずの間に氏よりもずっと年若い人を投げ倒し、出席者一同、氏の勇気と熟練とを賞賛した事も忘れ得ない。私は氏の遺志に従い、日本におけるオリンピック競技会を支える事を最大の幸福と考える」

 1940年の大会の東京招致決定は、嘉納に対するIOC委員たちの信頼と尊敬の証であった。残念なことに嘉納の逝去2ヶ月後に、東京市は大会を返上してしまう。嘉納を尊敬するIOC委員たちは嘆くが、やがてブランデージ委員はIOC会長になり、1964年の東京オリンピック開催を支持する。彼は、嘉納や岸清一(日本体育協会第2代会長)のスポーツに対する考えに触れたことで、日本での開催を支持するようになったと述懐している。古いIOC委員たちも、嘉納との思い出や逸話を東京の関係者に喜んで話したという。日本人初のIOC委員、嘉納治五郎とは、かような人物であった。

真田 久
INDEXへ
次の話へ
前の話へ