「参加することに意義がある」とは?


 バンクーバー冬季オリンピックが終了した。精一杯戦った選手たちの姿は美しかった。スポーツの持つ純粋さの現れであろう。
 さて、オリンピックの開会式では、多くの場合、電光掲示板に「オリンピック競技会は勝つことではなく、参加することに意義がある」という文字が表示される。これは近代オリンピックを創設したピエール・ド・クーベルタンが広めたことばである。昨年のスポーツ予算に関する事業仕分けで引用されたように、「弱くても参加すればよい」という意味に用いられたりするが、本来の意味はそうではない。

 このことばが生まれたのは、1908年のロンドンで開催された第4回オリンピックにおいてであった。この大会では、スポーツ新興国のアメリカが活躍し、イギリス人とアメリカ選手団との間で感情がもつれた。審判団の多くはイギリス人であったために、アメリカに辛いジャッジが繰り返され、アメリカが抗議する場面が続いた。例えば、当時オリンピック種目だった綱引きでは、イギリスチームがスパイクを履いていたため、アメリカチームが抗議したが認められず、イギリスチームが圧勝した。
 こうしたトラブルを憂いたのは、アメリカ・ペンシルベニアからロンドンに来ていたタルボット司教であった。司教はミサに各国の選手や役員たちを招待し、「オリンピックで重要なことは、勝利することより競技することにある」と述べ、正々堂々競技するようさとした。ところがその後もトラブルは続く。陸上400m走決勝では、トップを走っていたアメリカ選手が走路妨害と判定され、再レースとなった。これにアメリカ選手団は抗議し、再レースをアメリカ選手たちがボイコット、イギリス選手一人だけが走って優勝した。

 そうした折、イギリス政府が大会役員を招いたレセプションの席上、IOC会長だったクーベルタンが司教のことばを引用して次のように述べた。
 「司教が『オリンピックで重要なことは、勝つことではなく、参加することである』と述べたのは至言である。人生において重要なことは、成功することではなく、努力することである。本質的なことは勝ったかどうかにではなく、よく戦ったかどうかにある。」
 クーベルタンは、よく戦うことが重要であることを示したかった。

やがてこの内容は、オリンピック精神を表すことばとして知られるようになった。クーベルタンが述べたように、「参加する」こととは、競技会において「よく戦う」という意味であり、より高い目標を目指して、努力し抜くことなのだ。

 今回のバンクーバー大会でも、アスリートたちの戦う姿を見ることができた。母親を失った悲しみを乗り越えて精一杯の演技をしたアスリート、寄せくる年齢を乗り越えて5回目、6回目と出場し続けたアスリート。よく戦った人の姿は、結果に関係なく美しく、心が洗われた。力を尽くし、よく戦うこと、これはアスリートのみでなく、われわれの人生においても大切なことで、そのことをオリンピックは大会ごとに教えてくれている。


真田 久

INDEXへ
次の話へ
前の話へ