百年前の留学生のスポーツ
日本では、留学生を2020年までに30万人にするという計画が進められている。現在の外国人留学生数は12万人強なので、相当数をさらに受け入れることになる。もちろん、数のみならず、彼らをどのように受け入れ、日本の文化を理解した人材として祖国に送り返すか、ということが重要であることは言うまでもない。 留学生が最初に来日したのは1896年のことで、日清戦争に敗れた清朝政府の要請によるものであった。東京高等師範学校(現在の筑波大学)校長だった嘉納治五郎(かのう じごろう)が彼らを受け入れた。嘉納は留学生用の私塾を設けて教育を行い、修了生を東京高師や早稲田大学、仙台医学専門学校などに入学させた。文豪となる魯迅(ろじん)も嘉納のもとから仙台に行った一人である。嘉納が受け入れた中国人留学生は8000人にもなる。体育やスポーツに熱心だった嘉納校長の影響で、東京高師の留学生は学校行事である陸上大運動会や水上運動会(漕艇)にも参加した。 学校行事のみならず、運動部の活動に参加した留学生も多い。東京高師のサッカー部には、留学生チームがつくられ、1909年頃から紅白戦や対外試合が行われている。最初の対外試合の相手は豊島師範学校(今日の東京学芸大学)で、1910年の6月と11月に東京高師のグラウンド(東京・大塚)で行われた。 その後も東京高等師範学校の留学生チームは対外試合を重ねている。1915年に行われた埼玉師範学校(今日の埼玉大学)との試合では、留学生チームが2-0で勝利した。留学生チームの実力もかなり上がっていたことがわかる。 このような学生同士のうるわしい関係ができたのは、嘉納校長の「他者に誠実に尽くしてこそ、自身の人格も磨かれ、お互いの国家も繁栄する」という考えによるものであったろう。彼ら留学生は帰国後、中国各地の大学教員や国会議員などになり、母国の発展に寄与した。オリンピックで中国選手が金メダルをとった際に流される中国国歌の詞は、田漢(でんかん)という東京高師出身の留学生によるものである。嘉納の打った手が、今日につながっていると言える。国として30万人もの留学生を受け入れようとする今日、百年前の留学生たちのスポーツを通しての交流ということにも、思いをはせるべきであろう。
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