メダリストの義務と責任<船木和喜選手>(1)




 「メダルを取るような世界トップレベルの選手と、才能はあっても成績はそこそこの選手の違いは何か?」と問われたら、私はいつもこう答える。「自分自身の明確な意志を持ち、それを自分自身の言葉で語って行動できる選手か否か」。これが取材者としての正直な実感である。

 私がこれまで出会った選手の中で、「さすがメダリスト!」と感心させられた筆頭格がスキージャンプの船木和喜選手だ。改めて説明するまでもないが、1998年長野五輪のジャンプ競技で金メダル2つ、銀メダル1つを獲得し、「世界一美しい飛型」と謳われた天才ジャンパー。長野五輪以後はスキー板の長さが変わったのをはじめ、ジャンプスーツのレギュレーション変更、極端な減量を防止するための体重制限、ジャンプ台そのものの規格変更などがあり、以前と同じ飛び方では飛距離が出なくなってしまい、近年は思うような成績が残せていない。一時は強化指定選手を外れるほどの苦境に陥っていたが、新たに模索してきた飛び方で徐々に結果が出始めている。バンクーバー五輪での代表復帰はあと一歩かなわなかったが、4年後のソチ五輪で再び世界の空に高く舞い上がろうと照準を定めている。

 そんな船木選手が今、競技に賭ける情熱と同じぐらいに力を注いでいるのが少年ジャンパーの育成だ。彼が金メダルを取った長野五輪当時、日本スキー連盟に登録する(アルペン、ノルディック、フリースタイル、スノーボードの競技すべてを含む)選手は北海道だけでも3000人近くいたが、現在はわずか500人と激減している。ジャンプ選手は100人を切っているような状態で、当然ながら少年ジャンパーの数も先細り。“お家芸”とまでいわれた日本のジャンプ界の将来が大いに危ぶまれているのだ。
 「ジャンプ選手を増やしたいといったところで、2本のスキー板を操れなければ始まりません。まずは子供たちを雪の上で遊ぶことに慣れさせる必要がありますが、スキーをやらせるにも道具はどうするのか、会場はどうするのか、誰が教えるのか……と問題山積です。学校でやるのが一番いいと思うんですが、それには教育委員会を動かさないといけませんし、何より現場の先生が熱くないと実現できません。手をつけるべきことがあまりにもありすぎて、考えれば考えるほどできなくなってしまうんですよ」
 と、船木選手は言う。

 そこで、日本のジャンプ界の現状と問題点を考察し、自分なりの打開策を記した『船木の思い』と題する資料を独自に作成。自分自身の競技活動を支えてくれるスポンサー探しで企業を回る際、「ぜひ読んでください」とこの資料も一緒に手渡した。これを読んだある食品会社の社長が、「資金の提供はできないけど、ウチが扱っている餃子の販売権をあげよう。その販売で得た利益をジュニア育成のために使いなさい」と言ってくれたのだ。
 当初は「販売権って何だ?」「オレたちに食品が販売できるのか?」と戸惑ったというが、食品業界について勉強しながら挑戦することを決意。競技活動に使うスポンサー収入と少年ジャンパーを育てるための基金をきっちりと区別するため、自らが代表を務めるスポーツマネジメント会社『F.I.T』とは別に、『えにし』という名の食品卸売販売会社を一昨年の2月に設立。少年時代から全日本のキャンプや遠征をともにしてきた元ジャンパーで、ジュニア育成にも熱い思いを抱いている吉田拓さんを社長に立て、二人三脚で事業をスタートさせた。
 「食品事業を始めたおかげで、販売してくれる店や食べてくれる人にもぼくらの思いに協力してもらえるようになりました。これまで知り合うことのなかった食品業界の人とのパイプもできたので、スポンサーを募って競技活動するというぼくの本業の幅も広がってきているんです」(船木選手)

※この項、次回(第22話)に続く


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