未来を照らすプロ車いすテニスプレーヤー




 「自分が身体をはって、なんとか現状を変えたい」。
 車いすテニスプレーヤー、国枝慎吾選手の悲痛な訴えを聞いたのは、2008年9月のことだった。「AIG Japan Open Tennis Championship」(2009年は楽天が冠スポンサー)の開幕を翌日に控えた有明コロシアムの記者会見場。ひな壇にはプレイベントに出演した国枝選手と、ダブルスのペアである斎田悟司選手が並んでいた。
 2004年アテネパラリンピックで金メダルを獲得した国枝・斎田ペアは、北京パラリンピックで銅メダル。国枝選手はシングルスで悲願の金メダルを獲得して凱旋帰国したばかりだった。話題性もあり、会見場には多くの報道陣が集まった。

 会見はおめでたムードではじまったが、次第に話題は斎田選手の去就と車いすテニスの厳しい競技環境のことにシフトしていった。妻子もある斎田選手は、経済的な事情から現役を続けることが難しくなり、北京パラリンピック直後に引退を表明していたのである。
 9歳のとき脊髄腫瘍によって車いす生活になり、11歳でテニスをはじめた国枝選手にとって、ひとまわり年上の斎田選手は憧れであり、目標であった。それがいまでは、かけがえのないペアとなり、2012年のロンドンパラリンピックでは共に金メダル奪還を目指すはずだった。身体的な問題ならともかく、金銭的な事情でパートナーが競技を断念せざるを得ないという事態が、国枝選手にはとうてい受け入れられなかった。

 その悔しさが、会見での訴えとなった。自分とて、十分に恵まれた環境を確保しているわけではない。年間およそ400万円かかるといわれる世界ツアーの転戦費用は、母校である麗澤大学の職員として得た給料と、練習拠点である吉田記念テニス研修センターのテニストレーニングセンター(TTC)のサポートで、なんとかまかなっていた。斎田選手の窮地は対岸の火事ではないのだ。

 だが、このときの国枝選手はすでに、2007年の年間グランドスラムを達成、国際テニス連盟(ITF) の車いす部門でアジア初の世界チャンピオンに輝き、世界に認められる存在になりつつあった。ITFの表彰式で肩を並べた世界ナンバーワンテニスプレーヤーのロジャー・フェデラー選手が、「日本の男子はなぜ勝てないのか」との日本人記者の質問に対し、「なにを言ってるんだ。日本にはミスター・クニエダがいるじゃないか」と応じたのは有名な話だ。
 自分が結果を出し続けることで、選手のおかれた厳しい現状を打破できかもしれない。自分がやらなければ、という使命感が国枝選手に火をつけた。

 有明コロシアムでの会見から7カ月後、2009年4月に国枝選手は、フェデラー選手も籍をおく世界規模のマネージメント会社IMGと契約を結び、日本人初のプロ車いすテニスプレーヤーとなった。8月にはユニクロと契約、今年4月にはHONDAのサポートも得た。これだけの環境を整えるとは、日本の障害者スポーツにおいて異例のことである。
 成績のほうも3年連続で世界チャンピオンに輝き、今シーズンもグランドスラムの初戦、全豪オープンで優勝。今月16日に福岡で開催されたジャパンオープンではシングルス5連覇を果たし、23日に開幕する全仏オープンに弾みをつけた。
 ダブルスでも勝利をあげている。ペアを組んだのは斎田選手だ。一時は引退に追い込まれた斎田選手はその後、新たなスポンサー企業があらわれるなどして引退を撤回、競技を続けている。そこに直接、自分の働きかけがあったわけではないと国枝選手は言うが、彼の目ざましい活躍が企業や社会に影響を与えていることは確かだろう。
 自分が結果を出すことで現状を変える。いまでも鮮明に思い出すあの日の宣言が、形になっていくのを見守りたい。


高樹 ミナ(たかぎ みな)

スポーツライター

2000年シドニー大会の現地取材でオリンピックの魅力に開眼。

2004年アテネ大会、2008年北京大会を含む3大会を経て、

2016年オリンピック・パラリンピック招致に招致委員会スタッフとして携わる。

競技だけにとどまらず、教育・文化・レガシー(遺産)などの側面から

オリンピックとスポーツの意義や魅力を伝える。

日本文化をこよなく愛し、取材現場にも着物で出没。趣味は三味線と茶道。

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