現役引退後の生き方




 アスリートにとって、競技引退後の人生をどう生きるかは切実であり、難しいテーマだ。

 私には、プロレスラーとして社会人大学院に入学し、プロフェッサー(大学教授)を志していた兄弟弟子がいた。しかし10年前、悔やまれる最期を遂げた。2000年6月18日、青山葬儀所で行なわれた追悼式。献花台中央には遺影とレスリングシューズ、そして、現役引退後の人生を賭けて取り組むと誓ったレスリング振興策が盛り込まれた学位論文が供えられていた。『現代レスリングが直面する課題』。200頁を超える大作である。

 大学入学後にレスリングを始めた鶴田友美は自衛隊体育学校で自らを鍛えあげ、4年生になった1972年に出場したミュンヘンオリンピックでは、パレスチナゲリラがイスラエル選手団を襲うテロに遭遇、凶弾に倒れたレスリング選手がいたため、再抽選が試合直前になって行なわれるという生々しい経験をしている。大学卒業後、そのころ旗揚げされた全日本プロレスの新入社員第一号となり、ジャイアント馬場とプロレスブームを盛り上げることになる。

 40歳を超えた大学院生は、「レスリングの芸術的水準を高める努力をしなければ、プロレスは大衆、テレビに支配されてしまう。私は長くその支配下にあったせいで、自分たちのテーマを追求できなかった。自分たちよりもテレビが偉いと思い、その構図から抜け出せなかった」と語っているものの、メディアを拒絶する方向ではなく、メディア・コンテンツとしてのプロレスおよびアマチュアレスリングの新たな価値の創造(再発見)に挑んだ。

 アマレスは、防戦姿勢から相手の背後に回りこんで地道にポイントを稼ぐ戦法が主流で、見ごたえのある大技を繰り出す勢いに乏しい。たとえ古代オリンピックから続く伝統があっても、「観客にとって楽しさ、面白さがない」ようなら、いずれオリンピック種目から外されやがて衰退する。プロレスがテレビのゴールデンタイムを独占した時代、その中心で活躍したジャンボ鶴田には、テレビの影響力に左右されるオリンピックでアマレスが今後どう扱われるか予想できたのだろう。
 一方のプロレスについても、アマレスや他の格闘技、スポーツでは相手の技を封じ込めようとするのに対し「プロレスは相手の技を受けて自分の得意技で勝つ」、いわゆるショーとしての要素やエンターテインメント性が生命線であるのだが、世間ではそうした肝心の理解が浸透してないため八百長視される。テレビでは大々的にもてはやされても、一般紙では報じられないことを悔しがっていた。

 同じレスリングでありながら、かたや観客に飽きられ、かたや世間の偏見に屈している各々の再生再起をめざし鶴田は、レスリングの原点ともいえる古代ギリシアのレスリングに着目する。古代ギリシアではなぜ、また、どのように市民の教育にレスリングが用いられたか。芸術家は、なぜ作品のモチーフにレスリングを採用したのか、どの技のどの局面を切り取っているのか……疑問解明に向け、ギリシア美術史の研究者にレクチャーを受け、レスラーでもあった哲学者、プラトンの教育論にも触れている。
 圧巻は「組み手からコブラ・ツイストに」「担ぎ上げて頭から落とすパワー・ボム」「ジャンピング・ニーアタック」「相手の背後にまわりバック・ドロップへ」「ボストン・クラブ」「グランド・ヘッドロック」といった具合に、壺絵や彫刻に残る古代レスリングの図柄がはたして現代のどのプロレス技に対応するかを自身のプロレス映像と照合し、特定している点だ。

 レスリングの芸術美は、レスラーが二人で創り上げるもので、しかも美が成立するにはそれを美として認識・享受できる観衆の存在が欠かせない。「観客とレスラー両方に対する教育」の必要性に確信を深めた鶴田は、国際レスリング連盟副会長を務めた笹原正三氏やジャイアント馬場の理解と協力を得て、レスリングのプロ・アマ交流を図り、相撲や柔剣道で行なわれる型の披露などを積極的に行ない、選手と観客にレスリングの芸術的価値を知ってもらうとの構想を抱いていた。

嵯峨 寿(さが ひとし)

筑波大学准教授(レジャー・スポーツ産業論)。秋田県生まれ。筑波大学体育専門学群卒業、同大学院修了、(財)余暇開発センター研究員などを経て現職。CSRや社会貢献活動などを通じた企業とアスリートのパートーナーシップが、双方およびスポーツや社会におよぼす効果などを研究。
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