葬り去られたオリンピック




 IOC(国際オリンピック委員会)により葬り去られたオリンピックがある。それは1906年に初めてアテネで開催された「中間オリンピック競技会」。「中間」というのは、1904年と1908年の大会の中間年に行われたことからそう呼ばれたもので、1949年に正規のオリンピック競技会として認めないことをIOCが決定した。根拠は、この大会がギリシャ人によるピエール・ド・クーベルタンのオリンピック復興運動への妨害であったと、クーベルタン自身が述べていたからだ。

 事の始まりは、1896年にアテネでの第一回オリンピックを成功裡に終えたギリシャ国王が、選手や役員たちを招いた晩餐会で、今後もギリシャでオリンピックを開催したい、と発言したことにあった。加えて、アメリカ選手とアテネ在住のアメリカ人、さらにイギリスの新聞「ザ・タイムズ」もギリシャでの継続開催を支持する声明を発表したことから、オリンピックの復活に心血を注いだクーベルタンは、ギリシャ人がオリンピック復興を独占しようとしていると反論したのだ。

 オリンピックの中間年での開催を提案したのは、初代IOC会長を務めたディミトリウス・ビケラスだった。各都市とアテネでの開催を交互に行うことで、クーベルタンのめざした国際性とギリシャの主張する古代との継続性を両立できると考えたのだ。この提案は、クーベルタンも出席した1901年と1905年の総会で、満場一致で可決された。クーベルタンも賛成せざるを得ないほど、他のIOC委員たちがこぞって支持したということである。
 それほどまでに熱烈な支持を集めた背景は何だったのか?
 それは、1900年と1904年の大会が成功しなかったため、オリンピックへの信頼がゆらいだことだ。両大会はともに国際博覧会の付属という位置づけだったため、開催期間も数ヶ月と長く、オリンピック競技はほとんど注目されなかった。
 そこでIOC委員たちは第一回アテネ大会のような開催形式、つまりスポーツ競技を中心として、歴史的に由緒ある古代の競技場で行うことを望んだのである。
 第一回オリンピックの会場は、パナシナイコスタジアム。古代のアテネの祭典、パンアテナイ祭が盛大に行われ、スポーツ競技やたいまつを持ってアクロポリスの丘をかけ上がるリレー競走も行われていた。1896年のアテネ大会の成功は、このパナシナイコスタジアムの復興にあったといわれ、クーベルタンもこの競技場を「競技の神殿」と称えた。
 「競技の神殿」で近代オリンピックを行うことは、古代の息吹を注入することになると考えられた。このことが、中間年でのオリンピック競技会のアテネ開催について、IOC委員たちを賛同させた理由だったのである。

 さて、パナシナイコスタジアムで開催された1906年の中間オリンピックは大成功を収める。参加国は20、選手数は826名と10年前のアテネ大会の倍となった。イギリス国王と王妃がはるばる観覧に訪れ、この大会に賛辞を贈った。いみじくも1908年の開催地のローマ市が財政難から返上を表明していた折で、中間オリンピックに感激したイギリスのオリンピック関係者とイギリス王室が受け入れを表明し、アテネでのIOC委員の会議で、1908年のロンドン大会が決められた。ロンドン大会でのイギリス王室の積極的な支援にはこうした背景があったのである。
 競技は1896年の競技に漕艇とサッカーが加わり、全体としてはフランス選手が活躍した。またパナシナイコスタジアムでは、スポーツのみならず、悲劇『オイディプス』が上演され古代以来の野外劇の復活となった。市内の劇場での演奏、古代の風習を受継いだ、たいまつ行列、さらには遺跡への訪問、IOC委員による講演など、多彩な芸術的、文化的プログラムも実施された。

 大会に参加しなかったクーベルタンは“ギリシャ人の野望”と呼んで、彼らへの非難を強め、オリンピックという語を、IOCの許可なく使わないよう通告した。やがてアテネでの中間オリンピック競技会はクーベルタン主導のもと葬り去られるのだが、この大会は一時失墜したオリンピックを蘇らせたのみならず、クーベルタンが推奨した文化プログラムという試みを、皮肉にも先駆的に実施していたのであった。


真田 久
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