スポーツ黎明期の学生運動




 日本体育協会が創設されて来年で100年を迎える。日本のスポーツ史を振り返るとき、明治期に日本にやってきた外国人教師たちの功績と共に、彼らを通してスポーツを知り、その虜になっていった学生らの気骨が偲ばれる。

 映画『炎のランナー』(1981年米アカデミー作品賞ほか)でも知られる1924年(大正13年)のパリでのオリンピック。日本からは19名の選手が陸上競技、水泳、レスリング、テニスに参加している。日本選手団にとって3度目のオリンピックとあって、1ヶ月を超える長い船旅で調整に失敗した前2大会の反省を糧に、船内には長さ7mのプールをはじめ、レスリングマットやトレーニング器具などが用意された。
 代表選手の選考をめぐっても、予選通過の可能性が高い者が選ばれている。

 陸上競技では、大会前年の10月から国内各地で第一次予選が行なわれ、当年4月に第二次予選会が開かれはしたものの、5000mで優勝した選手(早大)が選考に漏れた。代わって選ばれたのが、国外の大会で実績を残している選手で、これに対し早稲田、慶應、明治の各大学陸上関係者が異を唱えた。
 今でこそ各競技団体が行なっている代表選考は、当時はすべて大日本体育協会(体協)が行なっていたため、優勝選手の除外に加えて代表選手が官立学校の出身者に偏るなどの公平性に欠けていること、役員(見学員)の数が選手数に対して多すぎる点などを指弾したのである。

 こうした事態は、体協のそれまでの組織運営に対する学生たちの不満が限界に達したものとみられる。
 体協は創設以来、各学校の体育会や各競技団体で組織するとの規定があったが、実際のところ、翼賛員と呼ばれる、当時の額で100円(現在の100万円相当)以上の寄附をした20名程度が役員選考を担っていた。その結果、各学校関係者が協会運営に関与できる余地は限られ、オリンピックや極東選手権大会など、国際大会の第一線で活躍する選手の大部分を占めるほど存在感を示すようになっていた学生たちは、次第に不利な境遇に耐え切れなくなっていった。
 そしてついに早慶明ほか、体協の改造に賛同する大学からの決議文書が岸清一会長(1921〜33年在任)に手渡された。日本選手団がパリに発つ直前の1924年4月24日のことである。

 体協の財政は、国から初めて助成が得られる1921年までの間、有志の寄附金によってようやく成り立っていた。1915年からは翼賛員に加え、維持員制度(ひと月1円の寄附)を設けるなど資金難を克服しようと努めたが、同一人が翼賛員と維持員の両方に名を連ねるなど、限られた一部の篤志家に頼らざるを得なかった。国民体育の普及や競技への関心、理解もこれから高まろうかという時代に、日本政府としても体協への助成は困難だったのである。

 このように、学生たちの不満の原因であった体協の役員選考は、協会の苦しい台所事情が関係していたとはいえ、早慶明など13校が「第1回明治神宮競技会」(1924年10月30日)への参加をボイコットする強攻策に出ている。国が主催する初めての総合競技大会であり、明治天皇の神前に奉げる意味を持つ同大会を政争の具に用いなくてはならないほど、体協の組織改革は学生たちにとって切実な問題であったのだ。
 体協は直ちに改組に向けた協議を重ね、1925年4月、理事の大部分を加盟競技団体から選出することなどを含む改革案を承認した。その前後には、日本陸上競技連盟や後に現在の日本水泳連盟となる組織が結成されている。
 学生の決起(血気)は、かくして日本におけるスポーツ発展の基盤形成に寄与したのだった。

嵯峨 寿(さが ひとし)

筑波大学准教授(レジャー・スポーツ産業論)。秋田県生まれ。筑波大学体育専門学群卒業、同大学院修了、(財)余暇開発センター研究員などを経て現職。CSRや社会貢献活動などを通じた企業とアスリートのパートーナーシップが、双方およびスポーツや社会におよぼす効果などを研究。
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