聖火と聖火リレー




 他の競技会にはなくて、オリンピック固有のシンボルに、聖火と聖火リレーがある。この聖火リレーは1936年の第11回ベルリン・オリンピックで行われたのが始まりである。
 1936年の春、古代オリンピックが行われた地、オリンピアのヘラ神殿の前で、太陽光線から金属製の凹面鏡で採火し、その聖火がリレーによって、ギリシャ、ブルガリア、ユーゴスラビア、ハンガリー、オーストリア、チェコスロバキアを経由してドイツに入り、ドイツ国内のすべての都市を周遊した後、ベルリンのオリンピック・スタジアムの聖火台に点火された。総距離3,075kmを12日かけて、沿道各国のオリンピック委員会が選んだ3,075人のランナーによってリレーされ、ベルリンに運ばれた。

 ベルリン・オリンピックは、ナチスドイツの宣伝に利用されたという批判から、聖火リレーは戦後のオリンピックで継続するかどうか議論されたが、IOC関係者の強い要望で、続けられることになった。その根拠の一つは、聖火リレーは古代でも行われていた儀式であり、古代オリンピックの平和理念を現代のオリンピックに結びつけられるというものであった。

 では、古代での聖火はどのようなものだったのだろうか。古代ギリシャでは、火を焚く場所、炉(ろ)はヘスティアという女神の住処と考えられていた。ギリシャ神話によれば、ヘスティアは、すべての人間の家、神々の神殿においてまつられることを約束された女神で、平和と繁栄の神として崇められた。そのため炉は、神殿にはもちろん、個人の家にも設置されていた。共同体のあるところ必ず炉がまつられ、各都市の市庁舎にも「市の炉」があり、聖なる火が燃やし続けられた。人口増加により、市民がギリシャ外の地に移住して建設した都市にも、母市の炉の火が新しい市に運ばれ、市庁舎の炉に灯された。母市から持って来た火が燃えている限り、移住先の都市の平和と発展もヘスティアにより約束されると信じられた。炉の火はまさに聖なる火であったのだ。

 しかし、この聖なる火も、人間たちの悪事に触れることで汚れると考えられた。特に戦争は、汚れの最たるものであった。汚れた火を清浄にするためには、より清浄な火と取り替えなければならない。そこで、より清浄な火が灯されていると考えられていたデルフォイの神殿などに、聖火をもらいに行った。その際、清浄なままの火であるためにはなるべく速く、自分たちの神殿の炉に灯さなければならなかった。そのため、何人もの若者が次から次へとたいまつを手渡して走ったのである。長い距離を速く走ったために、疲労困憊して命を落とした若者もいた。
 やがて、最も清浄な火は太陽の光と考えられるようになり、凹面レンズを利用して光を集め、たいまつに移し、その火を手にして自身の神殿に向かって走るようになった。こうした聖火のリレーは、都市の祭典の折にも行われるようになる。アテネでは、人類に火を与えた神をまつったヘーファイストス神殿から、アクロポリスの丘に建つパルテノン神殿までを、4年に一度の大祭でリレー競走するようになった。夜、何組もの若者が、たいまつを持って丘の斜面を駆け上がっていく様は、まことに美しいと古文献は語っている。新たな清浄な火が、神殿に灯されることで、人々は平和と安心を確認したに違いない。
 古代における聖火とは、そのようなものであり、今日のオリンピックの聖火リレーには、そうした古代の遺産が含まれているのである。

真田 久
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