職人の技と心を受け継ぐ聖火台<前編>




 東京・神宮外苑にある国立霞ヶ丘競技場(以下、国立競技場)。フィールドをぐるり見渡すバックスタンドの最上段に、円錐を逆さにした格好の聖火台が鎮座する。46年前の10月に開かれた東京オリンピック(1964年10月10〜24日)のシンボルだ。
 日本初のオリンピックの火を灯した聖火台は高さ2.1m、直径2.1m、重さ2.6tの鋳物(いもの)でできている。鋳物とは、加熱して溶かした金属(鋳鉄)を鋳型とよばれる型に流し込み、冷えて固まった後にできる金属製品のことだ。大きめの鋳物としては、お寺の釣り鐘や天水鉢がそれにあたる。

 東京オリンピックを機に作られたと思われがちな国立競技場の聖火台だが、実際はそれよりも前、1958年(昭和33年)5月の第3回アジア競技大会に向けて作られたものだ。手がけたのは、かつて鋳物産業で栄えた埼玉・川口の鋳物師(いもじ)、鈴木萬之助さん、文吾さん親子。

 萬之助さんは銅像や仏教彫刻などに用いられる鋳造技術「惣型法(そうがたほう)」の名工で、上野の西郷隆盛像の製作を彫刻家である高村光雲のもとで手がけたこともある。文吾さんもまた、子どもの時分から父親のもとで修行を積み、惣型法を受け継いだ腕利きの職人であった。

 萬之助さんのもとに聖火台の製作依頼が来たのは、アジア競技大会まで残すところ半年という切羽詰ったタイミングだった。聞けば、当初は大手造船会社に発注したが、国内で前例のない聖火台の製作には技術も手間も要するということでコスト面が折り合わず、交渉は暗礁に乗り上げていたということだった。
 ところが萬之助さんは採算度外視でこれを引き受けた。「鋳物の街・川口の名に懸けて、国の仕事ができるのは名誉なことだ」という職人の心意気からだ。

 聖火台の製作はさっそく、3カ月の製作期間を条件に始まった。作業は昼夜を問わず行われ、鈴木さん親子は製作開始から2カ月後に鋳型を作り上げた。そして1958年(昭和33年)2月14日、鋳鉄を流し込む「湯入れ」にこぎつけた。

 湯入れとは、キューポラとよばれる溶解炉で溶かした、およそ1400度の鋳鉄を鋳型に流し込む作業のことだ。均等に注がなければ良質な鋳物はできないため、高い技術と経験を要する、いわば鋳物師の腕の見せどころである。湯入れの当日、作業場には聖火台プロジェクトの関係者や町の人々が大挙し、一大イベントの様相を呈した。

 キューポラから取り出した鋳鉄をゆっくりと鋳型に流し込んでいく萬之助さん。その様子を固唾を呑んで見守る文吾さんと見物人たち。だが40秒ほどしたそのとき、突然鋳型が爆発、破損部分から真っ赤な鋳鉄が飛び出した。

 さいわい怪我人はなかったものの、萬之助さんは流れ出る灼熱の鋳鉄を眺めながら、その場に立ち尽くした。そして、失敗のショックと過労から床に伏せてしまい、8日後、帰らぬ人となった。享年68歳であった。

 一方、文吾さんはといえば、事故の直後から製作を再開していた。納期まで残された時間はわずか1カ月。父を欠いた痛手とプレッシャーは計り知れなかったが、「作らなければ川口の恥、日本の恥」という思いでいっぱいだった。(次週、第45話へつづく)

高樹 ミナ(たかぎ みな)

スポーツライター

2000年シドニー大会の現地取材でオリンピックの魅力に開眼。

2004年アテネ大会、2008年北京大会を含む3大会を経て、

2016年オリンピック・パラリンピック招致に招致委員会スタッフとして携わる。
競技だけにとどまらず、教育・文化・レガシー(遺産)などの側面からオリンピックとスポーツの意義や魅力を伝える。

日本文化をこよなく愛し、取材現場にも着物で出没。趣味は三味線と茶道。

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