職人の技と心を受け継ぐ聖火台<後編>




※このコラムは第44話からのつづきです。

 鋳物(いもの)づくりの名工とうたわれる鋳物師(いもじ)・鈴木萬之助さんの腕をもってしても立ち行かなかった聖火台づくりは、萬之助さんの弟子であり息子である文吾さんに託された。納期まで、あと1カ月。文吾さんはのしかかるプレッシャーと戦いながら、寝食を忘れて作業を続けていた。

 当時の窮状は、文吾さんが萬之助さんの葬儀にさえ出られなかったというエピソードが物語っている。父親の死を知れば気持ちが動揺して仕事が手につかなくなるのではないか。そう心配した家族が文吾さんに萬之助さんの死を伏せるという苦渋の決断をしたからだ。
 それでも葬儀の当日になって、文吾さんは近所の人から訃報を聞かされる。そして作業着のまま自転車に飛び乗り葬儀に駆けつけたが、萬之助さんの亡骸はすでに霊柩車に乗せられ自宅を後にするところだった。
 霊柩車を見送りながら、じっと涙をこらえる文吾さん。その悲痛な姿に参列者たちはもらい泣きしたという。
 「おやじの弔い合戦だ」。このときそう心に決めた文吾さんは、すぐさま作業場へ戻り、まるで何かに憑かれたように聖火台づくりに没頭した。

 不眠不休で作業を続けること2週間、鈴木さん一家にとっては鬼門ともいえる湯入れの日がやってきた。萬之助さんが失敗のショックから命を落とすことになった運命の瞬間だ。
 湯入れの勝負は、ほんの数十秒。灼熱の鋳鉄(いてつ)をゆっくりと流し込む文吾さんの姿が、亡き萬之助さんと重なる。文吾さんにも、その場に居合わせた人々にも一瞬、悪夢がよみがえった。
 しかし、湯入れは無事成功。悲願の聖火台がついに完成した。鋳型をはずして現れた聖火台を目にしたとき、文吾さんは大仕事を終えた安堵と達成感で男泣きに泣いた。「引き受けた仕事は命がけでやるのが職人。おやじはそのことを教えてくれた」と文吾さん。春の足音が聞こえる1958年(昭和33年)3月5日、36歳の出来事だった。

 こうして誕生した聖火台は、その年の5月に開催されたアジア競技大会で聖火が点火され、6年後の1964年(昭和39年)10月10日、東京オリンピックの開会式で最終聖火ランナーの坂井義則さんによって日本初のオリンピックの火を灯した。
 オリンピックの後は毎年10月10日前後になると文吾さんが国立霞ヶ丘競技場に出向き、聖火台を磨いた。聖火台には「鈴木萬之助」を略した「鈴萬」の文字が刻み込まれている。そこには「虎は死して皮を残すというが、職人は名を残す。おやじへの恩返し」という文吾さんの想いが込められている。
 その文吾さんも2008年7月6日、86歳で永眠した。1ヵ月後に控えた北京オリンピックの前に聖火台を磨きに行きたいと言っていたそうだが、残念ながら叶わなかった。

 しかし、文吾さんの遺志は次の世代に受け継がれた。家業を継いだ息子の常夫さん、文吾さんの弟で工芸作家の昭重さんらが中心となって聖火台を磨いている。また、聖火台誕生の経緯を知り感銘を受けたオリンピックハンマー投げ金メダリストの室伏広治選手が2009年から聖火台磨きに参加。鋳物のつや出しに効果的という食用のごま油をしみこませた手ぬぐいを手に、遺族や支援者らと一緒になって汗を流した。「鈴木さん親子が精魂こめて作った聖火台は、日本人の心のレガシー(遺産)」と室伏選手。
 そして今年、11月14日に開かれる陸上競技大会(第5回東京アスレチックカーニバル)に参加する小中高校生らと聖火台を磨くという。このとき鈴木さん親子のエピソードも語られる。
 真摯に競技を追求するその姿勢から“求道者“と称される室伏選手が、直接語って聞かせる職人の物語は、日々鍛錬を積む子どもたちの小さなアスリート魂に火を灯すことだろう。

高樹 ミナ(たかぎ みな)

スポーツライター

2000年シドニー大会の現地取材でオリンピックの魅力に開眼。

2004年アテネ大会、2008年北京大会を含む3大会を経て、

2016年オリンピック・パラリンピック招致に招致委員会スタッフとして携わる。
競技だけにとどまらず、教育・文化・レガシー(遺産)などの側面からオリンピックとスポーツの意義や魅力を伝える。

日本文化をこよなく愛し、取材現場にも着物で出没。趣味は三味線と茶道。

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