平沢和重と東京オリンピック




 1964年の東京オリンピックは、日本にとっても柔道界にとっても歴史的なオリンピックとなった。アジア初のオリンピックであったことと、柔道がオリンピックの正式競技になったからである。

 この1964年の大会開催地を決定するIOC総会は、1959年にドイツのミュンヘンで開催され、最後の招致演説をしたのは平沢和重(1909〜1977年)であった。平沢は元外交官で、この当時はマスコミの解説委員として活動していた。1時間の持ち時間のうち、スピーチに要した時間はわずか15分。残りは質疑にあてた。平沢が強調したのは、国語の教科書に載っている『五輪の旗』という話しを紹介し、日本の学校ではオリンピックについて全生徒が学習している、オリンピックを開催する準備はできている、というものであった。この簡にして要を得たスピーチが功を奏し、東京への票が上積みされたといわれている。

 平沢は、怪我してドイツに行けなくなってしまったスピーカーの代行として、急きょ選ばれたピンチヒッターであった。しかし、この選択が良かった。実は平沢は、1959年からさかのぼること19年前の1938年、IOC委員 嘉納治五郎(かのうじごろう)と寝食を共にしたことがあったからだ。というより、嘉納の最後の11日間を一緒に過ごした唯一の日本人であった。

 1940年の東京大会を確定した1938年のIOC総会後、嘉納は旧知のIOC委員へのお礼と東京大会への協力を依頼して欧米を回り、バンクーバーから氷川丸で横浜港に向けて帰国の途に着いた。同じ船の一等船室に一人だけ日本人がいた。それが外交官の平沢だったのである。平沢は嘉納と一緒に食事をとり、外国人乗客や船長らと一緒に過ごし、オリンピックや柔道のことを嘉納から聞いた。横浜が近づくにつれて、嘉納のようすが少しずつ悪くなっていく。そして5月4日の未明、横浜港到着2日前に、終に息を引き取ってしまう。その時、嘉納の遺骸が眠っている部屋の隣室で、平沢は次のように記した。

「私は東京オリンピックのことは何も知らない。なにゆえ先生が秘書も連れずにこんな多忙な旅をされなければならなかったかもしらない。(中略)
 オリンピックを東京でやる以上見事にやってのけて、欧米をアッと言わせたいものである。使してあと二日で横浜だというところまで来て急逝された先生の今わの心境を思う時、万感こもごも至らざるを得ない。
 奇しき縁で先生の輝かしき八十年の最後の十一日間というものを文字通り起き伏しを共にした私は、そして今こうして御遺骸の安置された隣室で思いをその走るままに認(したた)めている私は、心から東京オリンピックの成功を祈らざるを得ないのである」

 大陸における戦争の悪化により、不幸にして、嘉納の死の2ヶ月後に東京市はオリンピックの返上を決定する。1940年の東京大会は葬り去られた。しかし、嘉納の最後の11日間を一緒に過ごした平沢の心に、嘉納の東京オリンピックにかけた魂が受け継がれたのだ。平沢がミュンヘンでのスピーチで、小学校でのオリンピックの教材を取り上げたのも、教育に力を注いだ嘉納の影響であろう。
 ミュンヘンからの帰国後、平沢は、1959年のIOC総会での東京招致決定について、古くからのIOC委員たちが嘉納との想い出を語りかけて来たように、その功績は嘉納にあった、東京オリンピックはその基礎の上に積み上げられたのだ、と述べている。当時のIOC会長ブランデージも、嘉納を尊敬していた一人であった。
 嘉納の思いが、平沢和重ら関係者をして、1964年の東京オリンピックを引き寄せたといえる。そして平沢がかつて思った通りに、欧米をアッといわせるオリンピックが東京で開催されたのであった。

真田 久
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