モスクワから30年




 さかのぼること30年前の1980年。この年、東西冷戦下のソ連の首都・モスクワでオリンピックが開催された。しかし日本選手団の姿はそこにはなかった。
 大会前年、ソ連がアフガニスタンに侵攻。アメリカのカーター大統領は対抗措置として、オリンピックへの参加ボイコットを盾に撤退を迫ったもののソ連は応じず、1980年4月、米国オリンピック委員会は不参加を決める。
 日本ではその2週間後、アメリカとの関係を重視する自民党政府が「参加は望ましくない」との見解を示すと、5月24日の日本体育協会臨時理事会とそれに引き続いて開かれた日本オリンピック委員会(JOC)の臨時総会において不参加が決議された。
 当時のJOCは、元参院議長の河野謙三氏が会長を務める日本体育協会の一部門であり、財政は国庫ならびに政府系財団からの補助金に依存していた。JOCにとっては、強行策に出たとしても、選手団派遣のための国からの助成が得られる見通しはなく、その後の影響も懸念されたに違いない。

 運命の女神の悪戯か、JOCがモスクワ派遣断念を決めた1週間後、陸上競技の代表選考会が開かれた。ナンセンスのようだが、以前から決まっていたスケジュールに従って挙行されたに過ぎない。選手には、オリンピック出場は絶望と知りながら臨まなくてはならない残酷な大会でありながら、400mハードルに出場した長尾隆史(岡山工〜筑波大〜三菱重工)は堂々、標準記録を破って優勝を決め、幻のモスクワ代表となる。

 さかのぼること70年前の1940年。この年、日本・アジアで初めてとなるオリンピックが東京で開催される予定であった。しかし、戦時体制下の日本は、日中戦争の当事者として国際世論の風当たりも強く、戦局に集中すべきとの主張がやがて優勢となり、1938年7月、オリンピック開催を返上するに至る。
 東京でのメダル獲得が有望視されていたハンガリーのピストル選手、カロリィ・タカチはその頃、軍事演習の最中に手榴弾を投げ損ね、利き腕を失う。
 1939年春に開催された国内大会にタカチが姿を見せると、かつての同僚たちが寄ってきてお見舞いの言葉をかけ、観戦に出かけられる状態までに回復した彼を祝福した。
 「観戦しに来たわけではない。戦うために来た。」そう応じたタカチは優勝し、皆を驚かせた。

 実は、右腕を失い、タカチの選手生命はもう終わりだと誰もがそう思った時、彼は人前から姿を消し、残った左手を鍛えていたのだ。
 40年に続き、44年の大会までもが大戦で中止になったのは彼にとってはまたしても不運であった。しかし、戦後になって再開された1948年ロンドン大会に出場したタカチは、世界新記録で優勝を飾ると、続く52年ヘルシンキ大会も連覇、47歳で迎えた56年メルボルン大会にも出場を果たしている。

 あきらめず努力を重ねたからといって、必ずしもタカチのように実を結ぶ保証はない。
 長尾隆史は、国内記録保持者(当時)であり、日本陸上史上、400m障害において初めて50秒を切ったハードラーだ。とはいえ、1984年ロサンゼルス大会の選考レースの頃にはすでにピークを過ぎており、オリンピックへの再挑戦は、無情な結果に終わった。

 「オリンピックを目標にしてきたので残念だったが、オリンピック代表の座を勝ち取れたことには満足している」と静かに語る長尾は現役引退後、指導者の道を歩む。学校、教育委員会、文部科学省(競技スポーツ課)、岡山県スポーツ振興課と指導のフィールドを変えながらも、多くの人たちがそれぞれスポーツに親しむことができるようにと力を尽くしている。
 モスクワオリンピックから30年が経った。幻のオリンピアンたちはその後の人生において、あの時に抱いた気持ちをどう昇華できたのであろうか。

嵯峨 寿(さが ひとし)

筑波大学准教授(レジャー・スポーツ産業論)。秋田県生まれ。筑波大学体育専門学群卒業、同大学院修了、(財)余暇開発センター研究員などを経て現職。CSRや社会貢献活動などを通じた企業とアスリートのパートーナーシップが、双方およびスポーツや社会におよぼす効果などを研究。
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