箱根駅伝の創設者 金栗四三




 お正月の風物詩となった箱根駅伝(正式には東京箱根間往復大学駅伝競走)。その最優秀選手には金栗四三杯が授与される。創設に尽くした金栗四三(かなくりしぞう 1891〜1984年)の功績を称えて2004年から設けられた。今年は2区で17人抜きを果たして東海大学の上位入賞に貢献した村澤明伸に与えられた。
 箱根駅伝の創設者、金栗は熊本県での小学校時代、往復12キロの道のりを走って通学し、脚力が鍛えられたという。1910年、東京高等師範学校(現在の筑波大学)に入学すると、年2回行われていた校内長距離走大会で頭角をあらわし、校長であった嘉納治五郎のすすめで、長距離走を本格的に練習するようになった。
 1911年の夏、嘉納が日本体育協会を設立、同年秋、第5回オリンピック派遣選手選抜競技会を開催した。マラソンでは当時の世界記録を縮めるタイムで金栗が優勝し、短距離走の三島弥彦(東京帝大)とともに、日本代表として二十歳でオリンピックに出場することになった。嘉納は「君の最善を尽せ、最善を尽したる上の勝敗は男子の本懐なり」と東京高師の壮行会で激励した。

 1912年5月16日に東京・新橋駅を出発、福井県敦賀から船でウラジオストックに渡り、シベリア鉄道に乗り継ぎ、モスクワ経由でストックホルムに到着したのは6月2日。移動に半月以上を要し、到着後数日は身体が動かず練習できなかった。7月7日の開会式に「NIPPON」と書かれたプラカードを金栗が持って入場行進し、7月14日にマラソンが行われた。当日の気温は30℃を超えて暑く、棄権者が続出。完走したのは半数に過ぎなかった。レース経験の乏しい金栗も、熱中症で身体の不調を来し、レース途中で止めざるを得なかった。金栗はこの時の無念さとともに、国内に欧米の科学的な練習方法を取り入れねばならないこと、スポーツをさらに奨励すべきことを母校の報告書に記した。

 その後、千葉県館山にしばしば泊まりながら、暑さ対策と科学的トレーニングを行い、汚名をそそぐべく次のオリンピックを待った。1914年には再び世界記録(2時間19分20秒)を樹立するが、1916年の第6回オリンピック(ベルリン)は第一次世界大戦で中止。その後の第7回(アントワープ:16位)、第8回(パリ:途中棄権)に出場するも、結局、入賞すらできなかった。
 当時のマスコミはそんな金栗に失望するが、金栗は1924年に著した陸上競技の指導書で次の言葉を記している。「十分練習して競技会に出場し、奮闘の後に負けたなら、決して不名誉ではない、むしろ賞賛すべきである」
 これは指導者向けの書であったが、彼自身の胸中を表していたに違いない。自身を最大に称えたのであった。

 金栗は、アスリートとしてのみならず、マラソン人口を拡大させるために、日本全国をくまなく走った。下関〜東京間、樺太〜東京間、九州一周、富士登山マラソンなど。金栗は単に1人で走っただけではない。例えば樺太や下関で、走ることの楽しさ、スポーツのすばらしさについて講演を行い、そこに住む青少年たちと一緒に走っている。「名所旧跡や風景の良い所をめざして走るのが良い」との、嘉納の教えを実行していた。そのような長距離走普及のための一つが、東京〜箱根間をリレー方式で走る駅伝で、1920年に始められた。当初の参加校は、東京高師、明治、早稲田、慶応の4校であった。

 戦後も金栗は、山田敬蔵を1953年にボストンマラソンで優勝させる一方で、市民マラソンにも積極的に参加し、日本における長距離走の普及に努めた。金栗の生涯の走行距離は25万キロ、地球6周以上の距離に当たる。箱根駅伝には、創設者の人生がそのまま込められているのである。

真田 久
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