メダルを生んだスキー




 今年2011年は、日本にスキーが伝わってちょうど百年の節目にあたる。オーストリアのレルヒ少佐が、新潟県高田で青年将校らを相手に、一本杖を用いて滑るツダルスキー式のスキー技術を指導したのが1911年。この間の日本スキー史を語る上で欠かせないのは、日本の冬季オリンピック史上、初のメダル獲得を成し遂げた猪谷千春(現IOC委員)の快挙であろう。とりわけ、猪谷の実力開花につながるアメリカ留学を全面的に援助した人物との出会いはあまり知られていない。

 猪谷は1951年、第二の父親と慕う田島一男が店長をしていた運動具店で、ひとりのアメリカ人実業家を紹介される。米保険大手AIUの創業者であるスター氏は、オスロ・オリンピック開幕を2ヶ月後に控えた、当時まだ高校生だった猪谷に向かい、直ちにヨーロッパに発って練習するよう勧める。オーストリアのスキー場で、米国代表チームと一緒に練習すればよい、と。夢のような申し出であったが、日本のスキー連盟には先立つものがない。事情を理解したスター氏は即決、日本選手2人の渡航費から滞在費まで一切合財の面倒をみてくれ、さらには、オリンピック後に開かれる全米選手権にも招待するという。全くの初対面にもかかわらず、しかも先の大戦にまつわるアメリカの対日感情を勘案しても信じられない厚意である。

 オスロでの猪谷の成績は滑降24位、大回転20位、回転11位という結果で、日本の冬季オリンピック初のメダルは、4年後の大会を待たねばならなかった。
 帰国した猪谷にまたもスター氏からさらに驚くオファーが届く。今度は、アメリカに留学してはどうかとの勧めだった。1953年、猪谷はアイビー・リーグに属する名門、ダートマス大学に入学を果たす。しかし、言葉の壁もあって学業とスキーの両立には苦労する。試験の成績が60点以下だと、デート、パーティ、車の運転、長期休暇中の帰省が禁止になるほか、キャンパス外で開催されるイベントへの参加も禁止になるとの厳しいきまりがあった。
 大会に出るには勉学に励まざるを得ない状況に追い込まれ、そこで考え出したのが「勉強しながら練習もする」という方法だった。スキーコースの旗門設定を覚える暗記力を鍛えるため、授業ではあえてノートを取らず、部屋に戻ってから記憶を頼りにノートに書き出す。空気椅子の恰好や腕立て伏せをしながら教科書を読む、等々、練習をしながら勉強は無理なので、勉強をしながら練習する努力を重ねた。

 在学中の1956年、コルチナ・ダンペッツオ(伊)で開かれたオリンピックでは、大会直前に捻挫をするというアクシデントに見舞われるも、得意の回転で、トニー・ザイラーに次いで高い表彰台にのぼる。

 猪谷がスター氏と出会った銀座の運動具店には、田島氏と猪谷の父親・六合雄(くにお)が開発した、“プラスチックスキー”が店頭にならんでいた。たまたまテニスシューズを買いに立ち寄ったスター氏が、当時は珍しかったそのスキー板をいじっているうち、滑走面のプラスチックが割れてしまった。弁償を申し出たスター氏に対し田島が、「簡単に壊れるほうが悪い」と申し出を断るところから二人の話は始まり、オスロ・オリンピックに参加する日本人選手、すなわち猪谷千春の話題に及んだ。ちょうどそこに猪谷本人が店に現われ、ヨーロッパ遠征、全米選手権招待の話がトントン拍子で決まったというわけだ。

 日本のアルペンスキー史上、オリンピックメダリストはまだ猪谷ひとりだけである。もし“プラスチックスキー”がスター氏の目にとまることがなかったならば、あるいは猪谷千春とスター氏の出会いは生まれず、日本の冬季オリンピック史上初のメダル獲得は16年先の札幌まで待つことになっていたかも知れない。

嵯峨 寿(さが ひとし)

筑波大学准教授(レジャー・スポーツ産業論)。秋田県生まれ。筑波大学体育専門学群卒業、同大学院修了、(財)余暇開発センター研究員などを経て現職。CSRや社会貢献活動などを通じた企業とアスリートのパートーナーシップが、双方およびスポーツや社会におよぼす効果などを研究。
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