第1回オリンピックと日本




 日本選手団のオリンピック初参加は、今からおよそ100年前、1912年にストックホルムで開催された第5回大会のことで、嘉納治五郎(かのうじごろう)団長率いる2名の選手(三島弥彦、金栗四三)が参加した。明年はオリンピック競技会への参加100周年ということになる。
 実は、1896年に開催された第1回オリンピック競技会(アテネ大会)に、すでに日本は関わっていた。それはオリンピックの文化プログラムに関してであった。ギリシャの組織委員会は音楽競技や文化プログラムを計画し、実施した。音楽競技については大会7日目に、楽団によるコンクールが予定されていた。当日、海上の悪天候で地方からの楽団の到着が遅れたため、コンクール自体は中止になってしまうが、夜に7つの楽団が市内の大通りを演奏しながら行進したのであった。
 閉会式でのメダル授与式では、オックスフォード大学の学生ロバートソンが、オリンピック競技会を賛嘆した自作の詩(古代ギリシャ語)を観衆の前で朗読し、ギリシャ国王よりオリーブの小枝が授与された。音楽の演奏と詩歌の朗読は、古代の芸術競技を引き継いだものであった。

 さて、日本が関わった文化プログラムの一つは、射撃委員会主催の展示に関してであった。第1回オリンピック競技会の射撃委員会委員長であったニコラオス皇子のもと、各国の銃や武器に関する展示が企画されたのである。
 まだ日本と外交関係のなかったギリシャは、在英ギリシャ代理公使メタクサスより、在英特命全権公使の加藤高明を通して、日本で使用されている銃の出展依頼が1895年8月になされた。外務省から連絡を受けた陸軍省(大山巌陸軍大臣)は、村田連発銃1挺と擬製実包30発を1896年1月にギリシャに送付したのであった。外交文書には、アテネで行われる「オリンピック競技」に出展させることが書かれているのである。このことは、日本国政府が第1回オリンピック競技会に関わったことになる。実際に行われた展示の詳細は明らかになっていないが、アテネ市内のどこかの博物館で行われたに違いない。

 さらに、銃の出展のみではなく、別の文化プログラムにも日本は関与していた。競技会開催中の夜には、音楽の演奏のみではなく、松明を灯しての行進や古代劇の上演などがアテネ市内で行われた。アテネ近郊の港、ゼア湾では、海上に小さな舟をたくさん浮かべ、そこに日本の灯籠(とうろう)を乗せて装飾したのであった。大通りにも日本の提灯(ちょうちん)が灯された。この光景は行き交う人々を魅了し、近代オリンピックの創設者、クーベルタンもその美しさを称え、報告文にそのようすを載せている。

 1896年という年代に、数多くの日本の灯籠や提灯がどのような経緯で、アテネに渡ったのか、新たな疑問が生じて来るが、第1回オリンピック競技会の文化プログラムに、日本が深く関わっていたことは事実である。日本の文化がオリンピックとともにヨーロッパに広く知られることになったのも事実であろう。オリンピックとは国交を超えた文化交流そのものであったともいえる。このような視点で日本のオリンピック参加100周年を考え直してみるのもおもしろいのではないだろうか。

真田 久
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