ハーンは、1891年、第五高等中学校(現在の熊本大学)の校長をしていた嘉納治五郎(かのうじごろう)のすすめで、英語の教師として熊本に赴任した。日本文化に大いに興味を持っていたハーンは、嘉納が学生たち相手に指導していた柔道場に足を運ぶ。そして柔道について次のように観察した。

「達人になると、自分の力に決して頼らない。では何を使うかというと、相手の力を使うのである。敵の力こそ、敵を打ち倒す手段なのだ。相手の力が大きければ大きいだけ、相手には不利になり、こっちには有利になるのである。」

 相手の力を利用して勝つ、すなわち「逆らわずして勝つ」ことが、柔術の本質であることをハーンは伝えた。ここでいう柔術とは、嘉納の柔道のことであり、ハーンはその巧みさに魅了された。

 しかしハーンが伝えようとしたのは、それだけではなかった。彼は、柔道を通して日本の近代化の特徴を描いたのである。

 

「西洋人は、日本は西洋のものなら、服装はもとより、風俗習慣にいたるまで、なにもかも、西洋のものを採用するようになると、予言したものであった。ある人にいたっては、宗教だって、そのうちに勅令が発せられて、国民がキリスト教に改宗するような時が来るやもしれないと信じた。けれども、このような妄信は、その民族の深い能力や、見識や、昔から持っている独立自尊の精神なぞを、まるで知らなかったことに起因する。その間、日本が、ひたすら柔術の稽古ばかりしていたということを、西洋人は爪の垢ほども想像しなかった。」

 日本人が皆柔術をやっていた訳ではないが、柔術の「逆らわずして勝つ」という原理に、日本人や日本文化の特質を見出したのである。そしてハーンは、西洋人よ、日本を甘く見るな、と言わんばかりの表現をする。

「要するに、日本は、西洋の工業、応用科学、あるいは経済面、財政面、法制面の粋を選んで、これを自国に採用したといえば、それで足りる。しかも日本は、どんな場合にも、西洋における最高の成績のみを利用し、そうしていったん手に入れたものを、自国の必要にうまく適合するように、いろいろに形を変えたり、あんばいしたりしたのである。

 自分の国は、昔ながらのままにしておきながら、実に敵の力によって、あたうかぎりの限度まで、自国を裨益したのである。かつて聞いたこともないような、あの驚嘆すべき頭のいい自衛法で、あのおどろくべき国技、柔術によって、日本は今日まで自国を守りつづけてきたのだ。いや、現在も守りつづけつつあるのである。」

 これが書かれたのは日清戦争の直前、欧米で出版されたのは日清戦争の直後(1895年)であった。欧米が日本に注目し始めた時期である。『柔術』が収められたハーンの作品集は、ロンドンでも、ニューヨークでも版が重ねられ、ベストセラーとなった。

 そしてこれ以降、講道館への外国人客が増える。それも政治家や外交官、教育学者などが次々に見学に訪れた。日本の近代化の正体は講道館にあり、ということを確かめに来たのであった。

 柔術を通して日本の近代化を描いたハーンは柔道の伝道者となった。そして嘉納治五郎の名も欧米で知られることとなる。

 ハーンの日本文化を見つめる視点のおもしろさもさることながら、ハーンが指摘したように、異国の文化をうまく受け入れて自分のものにしてきた日本人のしなやかさ、これは日本人の長所として忘れてはならないことのひとつであろう。

真田 久
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