1923年(大正12年)9月11日、関東地方を大地震が襲った。東京から神奈川にかけ多くの建物・家屋が焼け崩れ、死者・行方不明者の数は14万人ともいわれている。
東京・京橋にあった、当時の大日本体育協会(現在の日本体育協会)の事務所は、倒壊こそ免れはしたものの、重要書類、トロフィーなどを失った。9月30日、震災後の方針を協議する役員会が帝国ホテルに召集された。嘉納治五郎名誉会長を座長に、国民の士気を鼓舞するため、全日本選手権を東京にて11月の内に質素に開催すること、翌年に控えたパリ・オリンピックに向け、今秋に第一次予選を、来年4月には第二次予選を東京で開くことなど、当初予定の断行を確認した。(当時のオリンピック選手の選考は体協が一手に行なっており、方針の通りに大会、予選会とも東京駒場などで開催した。)
そして、理事会翌日の10月1日には「第8回国際オリンピック大会参加の宣言」を出し、パリ・オリンピック参加の意義を訴え、政府・国民の賛同を求めた。宣言書の要旨は次の通り。
今回の大震災は東京に限らず日本全体にとって大打撃である。全国民が一致団結し、速やかに回復に努めるべきところではあるが、著しい成長をとげている日本スポーツ界が、天災とはいえここで挫折しては将来のためとならない。特にパリで来年開かれるオリンピックは断念してはならない。このような状況下では選手団の大規模編成は望めないが、優秀な選手と指導者に限って派遣し、わが国スポーツ界の将来に尽くしたい。
さらに10月10日、政府に対しオリンピック参加のための補助金を申し出る請願書を出している。政府は最終的に、当時の金額で6万円を拠出することになるのだが、体協に対するこれ程の国庫助成はこれが最初であり、派遣費総額の9割に相当した。
1924年4月27日。7月5日に始まるパリ・オリンピックに向け、選手19人、役員9人からなる選手団が神戸港を出発。40日を超える船旅の末、6月7日パリに到着。
陸上、水泳、テニス、レスリングの4競技にエントリーした日本は、陸上三段跳の織田幹雄(広島一中)が14m35の日本新記録で6位に入る。日本陸上界初のオリンピック入賞について、同行した役員のひとりは今後への展望を力強く語っている。
「…万国オリンピックに参加すること三度、今回初めて陸上競技において1点を得たことを喜ばねばならない。わずか1点である。米国の253点に対し比すべくもない。しかしわが日本の陸上競技史上、燦然たる光彩を放つものである。これが踏み台だ。これが第一歩だ。」
水泳では、高石勝男(早稲田高等学院)が、まず1500m自由形で5位に入り、日本水泳界初のオリンピック入賞者となった。これを皮切りに、800mリレーで4位、そして再び高石が100m自由形5位、そして100m背泳で斎藤巍洋(立教大)が6位と入賞が相次いだ。
テニスは、前回のアントワープ大会で銀メダルを獲得しており、二大会連続のメダル獲得への期待がかかったが、シングルスの原田武一(ハーバード大)のベスト8が最高だった。
レスリングは日本からただ一人、フェザー級の内藤克俊(ペンシルバニア大)が出場。得意のフリースタイルでは3回戦で敗れたが翌日の3位決定戦にドクターストップを振り切って登場、前日に負傷した腕や首の痛みをこらえて最後まで戦い抜き、日本勢唯一のメダリストとなった。
http://www.japantopleague.jp/column/sportstory/sportstory_0126.html
メダル数だけをみれば、岸清一団長(当時の体協会長)が報告書で述べた通り「成績については満足できない」ものであったかも知れない。とはいえ、震災直後のオリンピック参加は、まさしく「参加することに意義がある」大会でもあったのだ。日本は決して意気消沈などしてない証として、また、「復興は覚束ない」といった海外メディアによる風評を一蹴し、列強と共にオリンピックの目的を達成しようとする意思表示であった。
わたしたちの先人は先の震災に屈せず、いや震災に見舞われたからこそ、細々とではあってもスポーツの火を絶やさず灯し続けた。4年後のアムステルダム大会では、前回6位だった織田幹雄がスタジアムのメーンポールにひときわ大きな日章旗を揚げ、日本に初めての金メダルをもたらした。希望へのかすかな光明に導かれた第一歩が、その後の日本の飛躍へとたしかに繋がった瞬間であった。
嵯峨 寿(さが ひとし)
筑波大学准教授(レジャー・スポーツ産業論)。秋田県生まれ。筑波大学体育専門学群卒業、同大学院修了、(財)余暇開発センター研究員などを経て現職。CSRや社会貢献活動などを通じた企業とアスリートのパートーナーシップが、双方およびスポーツや社会におよぼす効果などを研究。
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