戦中から終戦後しばらくの間、日本のスポーツ界は国際舞台から遠のいている。オリンピックについてみれば、“がんばれ前畑”に湧いた1936年大会が最後となり、戦後復帰がかなうのは1952年になってからだ。48年のサンモリッツ大会(冬)とロンドン大会(夏)には招かれず、日本水泳連盟はあえてロンドン・オリンピックの水泳競技と同じ日に日本選手権を開き、世界に挑んだ。
 「諸君の記録次第では、オリンピック優勝者は真の世界チャンピオンに値しない」。田畑政治日本水連会長の発破も効いてか、古橋廣之進と橋爪四郎(日大)はオリンピック優勝者はおろか世界記録をも打ち破った。しかし、日本の時計は遅いのではないか、プールの距離が短いのでないかとの誹謗を呼んだ。

 翌年6月、日本水連はどの競技よりも先に国際競技連盟への復帰を果たすと、8月にロサンゼルスで開催される《全米水上選手権大会》への切符を手にする。渡米メンバーは古橋、橋爪ら6人の精鋭。しかしかつての敵国への遠征である。どんな扱いを受けることになるか……意気込みや期待より不安が勝ったとしても不思議ではない時代。
 渡米前日、選手一行は連合国総司令部のマッカーサー元帥に接見、激励を受ける。

 君達は戦後初めて渡米する選手である。日本国民ばかりでなく全世界が君達の行動を見守っている。戦後の日本を代表する選手であることを忘れず、正々堂々とやってきてもらいたい。勝って奢らず、敗れて卑屈にならず、スポーツマンシップを堅持し、国際親善のために頑張ってくるように…

 戦後初めての海外遠征。日本選手は競泳8種目のうち5種目を制する。400、800、1500m各自由形では表彰台を独占、古橋はその全勝利を世界新記録で飾る。敗戦にうちひしがれた日本国民はラジオが伝える実況に心を躍らせ、快挙にわいた。

 不安をたずさえ太平洋を渡ったはずの村山修一(早大)の手記には、米国の選手と観客の様子が記されている。

 「レースの直前、直後には必ずグッラック、カングチュレーションと言っては大きな手で握手してくれた。観衆も我々に声援を惜しまなかった。世界記録を破るたびに万雷の拍手であった。敗戦国から選手を迎え、対等に競技をさしてくれた米国および米国人の包容力の偉大さに学び、その好意に感謝の意を表せざるを得ない。大会を通じてアメリカ人のフェアプレイを愛好するスポーツマンシップを心から感嘆した。相手の勝利を心から祝福していた光景は忘れられない美しい態度であった。」(日本水連編『使命を果たして』より)

 戦後、日本の占領政策を率いたダグラス・マッカーサーは、戦前のアムステルダム・オリンピック(1928)で金メダル22個を勝ち取るアメリカ選手団を率いている。日本の民主化政策の一環としてスポーツの普及にも力を注ぎ、古橋らの米国遠征の後押しをしたが、そればかりではなかった。

 関西出身の実業家で、後に日本庭球協会副会長に就く池田政三の発案による《マッカーサー元帥杯競技大会》の開催を認知している。1947年にテニス、卓球、軟式テニスの都市対抗戦として西宮に始まり、以来、東京、広島、京都、新潟、長崎、岡山、松山の各市で順次大会が開かれた。

 しかし55年になると大会名から「マッカーサー」の文字が消える。

 マッカーサーは、51年4月、朝鮮戦争における戦略をめぐって対立したトルーマン大統領より解任を告げられる。帰国当日は、空港までの沿道に20万人もの見送りが詰めかける人気ぶりだったが、帰国後に米議会で行なった日本(人)に関する発言が報道を介して伝わると、失望や反感を招いた。そして同年9月、サンフランシスコ講和条約を機に自立解放ムードが徐々に広がっていく。そうこうして彼の名が大会から消えたとはいえ、大会自体は《全国都市対抗庭球・軟式庭球・卓球競技大会》などと改称されながらも続き、現在は国民体育大会のリハーサルを兼ねた《全日本都市対抗テニス大会》がその系譜を受け継いでいる。

 こうして戦後日本のスポーツ復興におけるマッカーサーの足跡をみたのも、今度の大震災の影響で、日本での開催が予定されていた国際大会が中止になるなど、世界のスポーツ界が日本を敬遠しているのが気になるからであろうか。

嵯峨 寿(さが ひとし)

筑波大学准教授(レジャー・スポーツ産業論)。秋田県生まれ。筑波大学体育専門学群卒業、同大学院修了、(財)余暇開発センター研究員などを経て現職。CSRや社会貢献活動などを通じた企業とアスリートのパートーナーシップが、双方およびスポーツや社会におよぼす効果などを研究。
INDEXへ
次の話へ
前の話へ