嵯峨寿

 世界的スポーツ用品メーカーの共同創業者となった大学教授とは―。

 ウィリアム・バウワーマン(ビル)は、復員後の1948年から1973年まで、オレゴン大学陸上部の監督を務めた。25年のあいだに全米大学選手権優勝4回、11名をオリンピックへ送り出し、自身も72年ミュンヘン大会に陸上チーム総監督として参加。

 同大体育学部の教授でもあり、引退後の74年に出版した『陸上競技のコーチング』では、長距離走の章が最初に置かれている。いかにも彼らしい。最晩年の教え子に、5000mのスティーブ・プリフォンテーン(プリ)がいる。プリは、初出場となる72年のオリンピックで優勝候補と期待されながら、本来の果敢な走りが出来ずに失速、4位に終わる。

 4年後の雪辱に賭け、卒業後は定職に就かず競技に専念。

 「長距離走には精神的成熟が求められる。プリの指導は、20代中盤から後半にかけてピークがくるよう考えている」。もしビルの指導方針の通りであれば、25歳で迎えるモントリオール大会、そして29歳のモスクワ大会こそ、プリにとってはメダル獲得のチャンスであった。しかし、翌年にオリンピックを控えた1975年5月29日、プリは自動車事故で悲運の死を遂げる。


 1977年『ジョッギング』という訳本が日本で発売された。その10年前にビルがこの本を執筆したきっかけは、ジョギングとの衝撃的な出会いに端を発している。

 1962年、ビルは大学の部員たちとニュージーランドへ遠征する。伝説的コーチ、アーサー・リディアードに指導法を学ぶのが目的だった。

 ある日、ビルはリディアードにランニングに誘われショックを受ける。二まわりも年上の老人について行くことができなかったのだ。それから6週間、毎日走り続けた結果、体重5㎏、腹囲10cm減少。帰国したビルの姿は10歳以上も若返って妻には見えたという。

 50、60年代のアメリカは、朝鮮戦争やベトナム戦争の兵力確保が必要とされた時代であったが、ケネディ大統領が「軟弱なアメリカ人」と嘆くほど、国民とりわけ青少年の体力低下は深刻であった。

 ジョギングが有効であると確信したビルは、直ちに大学で、市民対象のジョギング教室を始める。指導を通して得た経験やデータ、研究成果などをもとに著したのが“jogging”であった。


 戦時中、軍需転換を余儀なくされた米国の老舗スポーツメーカーは、戦後になるとドイツ企業の後塵を拝する。第二次大戦でドイツ軍と戦ったビルは、地元の林業用スパイク職人に靴づくりを学び、材料には奥さんのハンドバッグを失敬したり、ワッフル焼き器にゴムを流し込んで靴底を作ってみたりと、手製シューズを部員に履かせては改良に励んだ。

 そうした彼の姿を見ていた部員の一人が、卒業後の1964年に日本製運動靴の輸入販売会社を設立すると、ビルも共同創業者になった。高品質・低価格の日本製シューズは、すでに名声を得ていたバウワーマンのお墨付きとあって、評判は上々であった。

 日本からの輸入品の好調な売れ行きは、一方でこの師弟会社に不安をもたらした。米国での独占販売権の契約が解除されてしまうのではないか……その時に備え、独自ブランドの開発に着手するのであった。女子大生が35ドルでデザインしたマークを靴に縫いつけ、ギリシャ神話に登場する「勝利の女神」の名前で新たなビジネスの展開に乗り出す。

 1980年にはついにドイツのライバル企業を抜き、国内市場の売り上げで首位になったのも、ジョギング用のランニングシューズの貢献があったからだ。

 

 創業後にビルが書いた“jogging”を開けてみた。自社で取り扱っている靴を宣伝する記述があるに違いない、そう思ったのだが……

 「自分の足によくあった、はき心地のよい靴を求めたらよい。年をとると、足は特別なクッションを必要とする。丈夫な靴がよい。おそらく庭ではく靴や、買物用、散歩用の靴などがちょうどよいかも知れない。」……下衆の勘繰りに終わった。

 そういえば、プリが最初で最後のオリンピックにおいて履いたシューズには三本線が入っていた。アスリートの自主性を尊重し、支援に徹したビルは1999年クリスマス・イブにプリの元へと旅立った。

嵯峨 寿(さが ひとし)

筑波大学准教授(レジャー・スポーツ産業論)。秋田県生まれ。筑波大学体育専門学群卒業、同大学院修了、(財)余暇開発センター研究員などを経て現職。CSRや社会貢献活動などを通じた企業とアスリートのパートーナーシップが、双方およびスポーツや社会におよぼす効果などを研究。
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