真田久

 1923年の関東大震災の直後、前東京市長の後藤新平(1857〜1929年)が帝都復興院総裁として、広範な復興計画を立てた。後藤の見積もった予算は大幅に縮減されたものの、実際に後藤の計画に沿って大小の公園が新設された。横浜の山下公園、中央区の浜町公園なども当時つくられたが、中には、当初の計画にはなかったスポーツ施設が設けられた公園があった。それは三大公園(隅田、錦糸、浜町)の一つ、墨田公園である。隅田公園はウォーターフロントを実現したわが国最初の公園で、平時にはレジャーとして、緊急時には避難場として使用できるようにした。さらに、公園内にボートレースの観覧席を設け、プール、テニスコート、児童公園が設置され、水上スポーツのシンボルとしたのであった。一方、すでに震災前から、嘉納治五郎(1860〜1938年)の提案により建設が進められていた明治神宮外苑競技場を陸上スポーツのシンボルとし、この両者をスポーツ振興の拠点としたのであった。

 震災後の新しい公園にスポーツ施設を設けることを後藤に提案した人物は嘉納治五郎であったと思われる。嘉納は震災直後に、復興会議にスポーツの専門家を入れること、公園の整備に際して競技場を建設すべく建議することを大日本体育協会で決めていた。スポーツを奨励することが国民の活力を引き出し、復興につながるという考えであった。

 後藤は嘉納の講道館柔道の理念を理解し、その活動を支持していた。関東大震災前年の1922年、嘉納は講道館文化会を設立し、「精力善用・自他共栄」という考えを世に公表した。この考えは、日本が孤立しつつある国際情勢の中で、個人においても国家においても、最善をもって他者に尽くすことで信頼を回復し、結果的に自己も自国も発展させられる、というもので、これこそが講道館柔道の文化的精神にあたるとした。世界各地の人種的偏見を去り、文化の向上と人類の共栄を図ること、などが目標として掲げられた。

 この講道館文化会の創立式が同年4月に築地精養軒にて開催され、総理大臣高橋是清はじめ、内務大臣、文部大臣に次いで、東京市長後藤新平が、代理を立てて祝辞を述べている。嘉納の考えを理解していたことがうかがえる。

 嘉納は、講道館文化会の活動は、国家の運命を決する鍵を握っているとして、精力的に、国内はおろか中国(満州)、朝鮮にまで足を運び、文化会の支部を結成していった。こうした活動により、講道館は財政的に窮地に陥ってしまう。そこでそれを解決するために、講道館後援会を1926年2月につくり、広く寄付を求めることになった。この後援会の設立趣意書に田中義一や渋沢栄一らとともに後藤が名を連ね、さらに同後援会の評議員にも就任している。後藤は嘉納の理解者であったのだ。

 このような後藤と嘉納の関係を考えると、関東大震災後に公園内に競技場を整備せよ、という嘉納の提案は、後藤の耳に直接届いていたに違いない。それを後藤が墨田公園で実現させ、水上スポーツのシンボルとしたのであろう。こうして、明治神宮外苑と隅田公園とで、国民スポーツ普及と国際競技力の向上に果たすべく、スポーツの拠点が設立された。震災の翌年、1924年には外苑で第1回明治神宮競技大会が挙行されている。その数年後に日本は、三段跳びや棒高跳び、そして競泳で世界トップの座を占めるに至った。スポーツ界の国際的活躍は復興のシンボルとして人々に受けとめられたことだろう。

真田 久
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