1923年9月に起きた関東大震災からの復興の姿を当時の日本人は、国内外にどのように示したのだろうか。
大震災から6年半後の1930年3月末、東京で帝都復興祭が行われた。主催は政府復興局と東京市。26日には皇居二重橋外苑前で天皇陛下列席のもと、記念式典が行われた。帝都復興祭の内容は英文の書面で海外にも発信され、駐在大使はもちろん、多くの海外メディアが参加した。復興踊りの花車が東京内を回り、市電の復興乗車券も発行された。日比谷公園の広場には、1万5千人もの人を招待して、帝都復興完成祝賀会が開催された。
復興祭の一環として日比谷公園公会堂にて、舞踊会、ハーモニカ演奏会、軍楽隊や市民オーケストラによる演奏、映画会などの文化的な催しも行われた。また、本所公会堂では、日本音楽大会(神楽や琵琶劇など)、児童音楽会、映画大会などが3月23日から26日にかけて行われた。音楽パレードや夜には提灯行列も行われ、多くの人々でにぎわった。
また、鎌倉時代から祭で行われていたという、ホッケーに似た子どもの遊び、「マリ打ち」を郷土玩具の専門家に復興してもらい、当日披露された。日本文化の復興にもあずかったのであった。
これらと並行して、「復興の力を表徴するにもっとも意義ある記念事業」(朝日新聞)として行われたのが「帝都復興体育大会」であった。東京市と各競技団体により、3月24日から28日までの5日間、多くは震災後に創られた東京市内の競技場で、17に及ぶスポーツ大会が行われた。
震災後に創設され、水上スポーツの拠点となった隅田公園では、天皇陛下観覧のもと、ボートレースが行われた。東京帝大、東京商大、東京文理大、早稲田、慶応など、関東12校がレースを行い、隅田公園両岸は大観衆で埋まった。公園内に設置された児童公園を見て、陛下は「こんな公園が沢山出来て児童の遊戯が便利になるのは結構なことだ」と述べられたという。日比谷公園では、テニス、剣道とボクシングが行われた。テニスは硬式と軟式の両種目が男女それぞれで行われた。
陸上スポーツの拠点として震災後に整備された神宮外苑競技場では、野球、陸上競技、体操、ホッケー、蹴球、ラグビー、すもうの7競技が行われた。芝公園では弓術と水泳、YMCAではバスケットボール、府立6中ではバレーボールが行われた。最終日の28日、大会の最後を飾ったのは柔道で、日比谷公会堂で行われた。そのほか帝都訪問飛行として法政大学の飛行機2機が立川を出発することも計画されていた。
これらの参加者は、多くは中等学校、大学や専門学校の学生であったが、野球では実業団チーム、バスケットではクラブチームも参加した。また水泳では、水術各流派による古式の泳ぎも披露され、70歳代の人が喝采を受けている。その一方、体操では小学生も演技した。
ボクシングではフィリピン人選手4名、バスケットではアメリカンスクールも出場するなど、国際的な一面もあった。女子の部はボート、テニス、バレーボール、バスケットボール、陸上競技、水上競技、体操などに設けられた。
陸上競技では日本新記録も続出し、野球は外野スタンドまで埋まるなど、「復興成った帝都を全くスポーツの都と化した感があった」と読売新聞は伝えている。
朝日新聞も「世界に類を見ない日本人の反ぱつ復興力を発揮して居る」と評している。この月の20日には、神宮プールが着工になり、国際舞台での活躍も支えていくことになる。関東大震災からの復興の姿を、先人達はスポーツを通しても示したのであった。
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