「悪夢」断ち切れ! 男子ホッケー

荒木隆則
あらき たかのり
1963年10月、福岡市生まれ。88年時事通信社入社。4年間の広島支社時代も含め、一貫してスポーツを取材。プロ野球、大相撲、水泳、スキー、ゴルフなどを担当。98年長野冬季五輪、2000年シドニー五輪を取材。高校時代は野球部。


 プレーはもちろん、取材経験もほとんどないから、ホッケーへの関心は希薄だった。だが、最近少し気持ちが動いた。男子日本代表チームに来年4月の北京五輪最終予選(岐阜・各務原市)で「悪夢」を断ち切って欲しいと思っている。
 日本でホッケーと言えば女子代表だ。2004年アテネ大会で念願の五輪初出場を果たし、8位と健闘。強化費が十分でないために苦労したエピソードは広く伝えられ、マイナー競技ならではの厳しい環境からはい上がった選手に多くの人が拍手を送った。北京五輪に向けても早々と出場権を獲得。メダルも夢ではない力をつけている。
 男子はその陰に隠れた存在-。なんて表現ではしかられそうだが、何しろ1968年メキシコ大会を最後に五輪出場がない。昨年のアジア大会で4位に終わって惜しくも北京切符に届かず、残された同五輪最終予選でも厳しい戦いが待つ。
 そんな、もがきにもがく男子ホッケー界の人物とひょんなことから話す機会を得た。前男子日本代表監督の永井東一氏(44)。関係者を奈落の底に突き落とした「悪夢」を、その時知った。
 1972年1月のこと。同年のミュンヘン五輪出場権を得ていたホッケーの男子日本代表が突然、出場への道を断たれた。原因は何と当時の日本体育協会、日本オリンピック委員会の手続きミス。71年末が期限だった予備エントリーの文書提出を忘れてしまったのだという。そして、この時の悲運に泣いた代表選手の一人が現在の男子日本代表の長屋恭一監督(59)だった。
 夢を打ち砕く知らせを、当時の代表チームは茨城県東海村での合宿中に受けたそうだ。「スティックを握らず、砂丘を走る厳しい練習に耐えていた。みんなで古い神社に必勝祈願をした。そんな矢先のこと。五輪に向けてずっとやってきたのに…がく然としました」。長屋監督は振り返る。
 当時は水分を極力取らせないなど、非科学的でやたら苦しい練習だった。就職活動をせず、五輪にすべてを懸けていた学生がチームにいた。70年アジア大会の3位決定戦で宿敵マレーシアに勝ち、やっとつかんだ4大会連続の五輪切符…。すべてが水泡に帰し、ホッケー界全体が計り知れない痛手を負った。苦難の年月はここに始まる。
 事件とそれ以後の成績は直接的につながるものではない。だが、負の連鎖が続き、ホッケーに携わる多くの人は「何とか悪夢を断ち切らないといけない」(永井氏)の思いを抱く。
 2004年に就任した長屋監督をサポートするため、アテネ五輪で女子代表監督を務めた安田善治郎氏(61)が今春コーチに加わった。68年メキシコ五輪の代表選手だった二人が、厚い壁を破るためにタッグを組んだ。
 「今度こそ」。そんな思いを込めて、裏方には五輪最終予選の日本開催を実現させた人々がいた。期待を背負ったチームは、世界ランキングを2004年当時の16位から11位に上げてきた。
 だが、現実は厳しい。最終予選には日本を含め6チームが出場するが、北京五輪の出場権を得るのは1チーム。難敵マレーシアはもちろん、世界ランキング2位でアテネ五輪銅メダルのドイツを上回らなければ、40年ぶりの五輪出場はない。
 それでも、長屋監督は燃えている。「(悪夢の事件があった)あの時の黒済雄孝監督が昨年亡くなった。わたしは黒済監督の意志を継いでいる。強敵のスピード、パワーを食い止める力を身に付けるため、あと3カ月鍛えに鍛えて臨みたい」
 昨年、プロ野球の日本ハムが44年ぶりの日本シリーズ制覇を遂げた時、主力の小笠原内野手は「一生懸命やったのを、きっと神様がみていてくれたんでしょう」と言った。1990年代にヤクルトの黄金時代を築き、いま楽天を率いる名将・野村監督は「念ずれば花開く」の言葉を好む。
 何度でも壁にぶち当たっていく姿勢があれば、悪夢を断ち切る日はきっと来る。そして、それが来年4月であることを願う。男子代表が強豪をなぎ倒し、長屋監督、安田コーチが歓喜の表情を浮かべる瞬間を見たい。(了)