「伝える」から「育てる」へ 〜魅力あるスポーツのために
「いまそこにいる日本代表は『彼ら』ではありません。私たちそのものです」
「トラさん」の愛称で知られる、元NHKエグゼクティブアナウンサー、解説委員、法政大学スポーツ健康学部長、山本浩さんの名言の一つです。サッカー日本代表がついにワールドカップの重い扉を開いた1998年フランス大会アジア最終予選の勝利、いわゆる「ジョホールバルの歓喜」での熱い実況をご記憶の方も多いことでしょう。
当機構のアドバイザーでもいらっしゃる山本さんに、大学での指導、スポーツとメディアの関わり等について伺いました。
Q:大学ではどのようなご指導をされていますか?
法政大学スポーツ健康学部は2014年度で6年目になりますが、担当はコミュニケーション論とジャーナリズム論です。学生たちにスポーツに関するジャーナルなどを提示して、批評を書かせたりプレゼンテーションさせたりしています。
「教える」というよりも、刺激をする、学生の話を聞くというのが基本です。問いかけをして学生の側が行き詰まると、答え教えてしまいがちですが、「どうするの」と訊いて、学生が選択肢を欲しがるようなときにはヒントを提供します。そこから導き出した論理に説得力があるかどうかは、伝える学生の問題です。
「喉が渇いている者は飲む、渇いていない者は飲まない」という道理は、学問の世界にも通用します。知りたがる者は貪欲に尋ね、知ろうと思わない者は学びには鈍感です。一方で、知識や情報に関して言えば、「(息を)吐き出せば吸う」という道理もあるんです。ため込んだ知識はどこかで吐き出さないと、続けて吸うことが難しくなります。発表でも論文執筆でもいいんです。どこかで吐き出さないと、次に吸おうという気持が起きません。
教えるだけ教える、詰め込むだけ詰め込む。時間が限られ、広範な知識や情報が求められる今、そこが大学教育の乗り越えなければいけない点です。しかしこうしたやりとりが大人数だとなかなかできません。かといって大学自体が少人数だと、入るお金が少なくなって経営がうまくいかない。難しい点です。
大学教員の職についた時に戸惑ったのが、「4年」という年限です。普通に卒業するなら4年で学業が終わってしまいます。そこで結果を出すとなると、「いまどうなのか」を評価することになり、学生の能力や可能性を長い目で見られないという現実があります。人を育てるのに本来は10年計画ぐらいでなければいけないんですが。評価についても、どこが評価されるべき点なのか判断基準が見つけにくいのです。
Q:「評価」の際に一番必要なことは何でしょうか。
アクションに対して評価することでしょう。人間性や人柄ではなくて行動を評価する。これが結構大変なんです。例えば、「職場のあと片付けをしないで帰るが、優秀な仕事する人間」がいたとします。「後片付けをしない」ことに対する評価、「優秀な仕事をする」ことに対する評価のどちらを取るか。仕事よりも片付けをとってしまいがちなのが日本です。家族間であれば人柄で評価してもいいのですが、社会は契約ですから、どの能力で評価するのかをあらかじめ決めておかなければならない。「多少仕事ができなくても、片付けをしっかりやってくれるから」とつい甘く評価してしまう気持ちがあります。アクションで評価する世界はギスギスすると思いがちですが、それを埋めるために法や賠償制度や宗教があるわけです。我が国は全体が人情にほだされがちですが、アクションに対する評価を軸にする姿勢を身につけられるかどうか。この大きな課題は、どんなに世の中の技術が進化しても変わることはありません。
Q:スポーツ系の大学や学部が増えていますが、現状では受け皿が十分とは言えないと思います。卒業生の進路についての不安はありませんか?
ありますね。でも、考えようによっては、法学部を卒業して必ずしも法律の仕事をしているわけではない、それと同じだと思います。法学部で法の精神を大切にしながら仕事ができるかどうかと同じように、スポーツの中で学んだことを活かせるかどうか。社会に出た時に長いスパンで、視野を広げて勝負ができるかということです。
例えば、スポーツの世界では小さなエリアごとに一つの社会が形成されています。短い時間で目標を設定し、そのために自分を変化させたり対応させたりする。勝負する。結果が出る。ここまでの流れに至るまで、人生なら長い時間がかかりますが、スポーツはすぐに結果が出ます。チャレンジする、打ち克つ、といったことを短いスパンでシミュレーションすることができます。一方でスポーツを学んで得た専門知識を活かす場が少ないという現実もありますが。
Q:最近、文武両道を謳う大学が増えていますが、先生はどのようにお考えですか?
文武は別々でもいいではないかという考えもあります。同時に本当に「文武両道」は高いレベルで実現できるのか、両方が浅くなるのでは、という懸念もあります。要は両道が必要であることがわかっていれば良い訳で、それをいつやるか、どの程度究めるかはまた別の問題だと思います。
勉強は知識の獲得をはかるだけではありません。選択肢を多く持てるか、状況に応じて選択できるスピード感があるか、社会的に適正と思うものを選べるか、選んだ後に責任を持てるか、そこが重要です。学問的に覚えた知識や情報の羅列だけで果たして社会の役に立つのかといえば、いまはスマートフォンでいろいろなものがすぐに調べられる時代ですから、昔とはその有用性が違います。
一方で、年配者の中には、「いまの若者は常識がない」と批判的に言う人があります。昔のことばを知らない若い人は増えているかも知れませんが、そうした若者は現代社会で頻繁に使われる新しいことばには精通しているのが普通です。逆に古い人間には、LINEといっても何のことか分からない人が多いでしょう。それぞれの常識のエリアが異なるだけで、どちらがいいと一概には言えません。
学生によく言うのは、「主張する時には、法的、経済的、社会的、それぞれの視点から検証し、それぞれに言及した上で主張してほしい」ということです。さらに外交的、教育的、環境的、様々な面で仔細に検討し、その相関をチェックできる人ほど能力が高いのです。あらゆる選択肢に誤りがなく、すばやく検証できる。そして説得や行動ができるかどうか。そうした能力は社会に出たときに役に立ちます。
アスリートはある意味で、反応の能力を身につけるためにトレーニングをすることがあります。たくさんの選択肢の中から素早く適切に反応できる神経回路を見つけるためです。いま目の前で起こっていることで、やっていいこと、いけないことは何か。数多ある沢山の選択肢から瞬間的に最適なものを選ばなければなりません。時間があるときには、知と肉体との融合がなければいけないし、時間がないときには優れた反射能力を身につけていなければなりません。そういう意味で第一段階の文武両道を求めるのは理にかなっていますが、それを指導の中にどう持ち込むかは、指導者がそれなりの見識を持たないと説得力がありません。
Q:さて、地上波のスポーツ中継についてですが、放送時間の減少には日本のスポーツの厳しい現状も関わっているように思われるのですが。
中継の総時間がどの程度減っているかは知りませんが、仮に減っていたとしてもリーグやチームの努力だけでは中継を増やすことはできません。日本ではまだ「スポーツは遊び」であるという価値観がどこかに残っています。何よりもスポーツの価値の再認識が必要ではないでしょうか。
社会では、スポーツや適度な運動が身体にいいことは理解され始めています。座るより立つ、立つより歩く方がいいと。この点に関して、現状に危機感を持っている人たちもいます。ドイツのロベルト・コッホ研究所が行ったドイツの小学校1年生から4年生を対象にした調査によると、子供たちは1日24時間のうち、横になっているのが9時間、座っているのが9時間、立っているのが5時間、動いているのは残りの1時間だけだと分かりました。危機的な状況です。そうした現状に対して何をどうすれば良いのか。
大胆な構想をぶち上げてみましょう。例えば、「JTL加盟リーグの試合を一つ観たら内申書の点を100分の1点上げる」と決めたとするとどうでしょう。誰もが試合をせっせと見に行くようになるでしょうし、親御さんも「自宅学習より体育館に行きなさい」となるかも知れません。スポーツ観戦には、観て考えて自分の行動に転化させるという効果があるはずですが、その価値が認識されていません。子どもの頃から「スポーツを知的に見る」という経験が少ないせいかもしれません。
国語の時間ひとつをとっても、スポーツを題材にしたものはそれほど多くありません。体育の授業でも、身体を動かす機会は大切ですが、スポーツを観て何らかの論理的な思考のもとにディベートするといったチャンスは多くありません。フィジカルな能力が優れている子供は評価が高いのに、身体は動かないがスポーツの戦略などをよく把握している子供は評価が上がりにくい。そんな子が通知表で「3」をもらえば、体育が嫌いになるかも知れません。
Q:当機構の研修会に参加した若手選手の多くがオリンピックを観ていませんでした。自分がやっている競技でも「観る」ことには興味がないのでしょうか。
画面に映る料理が、自分の食べたいものと違うからかも知れません。テレビは見ている人一人一人の嗜好に合わせてくれるわけではありません。例えば、ハンマー投げの中継では、選手が投げた後の様子が観たくてもそこは映らないのです。それならいいや、ということもあるのだと思います。テレビはより多くの人に観てもらうために味の濃いものを出し続けます。「ハンマーを投げたあと、身体のメンテナンスをどうやり、メンタルの再構築をどうやっているのだろう」といったことを知りたがる専門家のためには作っていません。スポーツ中継番組では、「この選手は一昨日…」「彼の家族は…」といった、視聴者が知らない情報を次々に出すことがあります。「新しい情報」「知られていない情報」には価値があると伝える側が信じているからです。「ハンマー投げを始めてから初めての壁にぶつかっている自分は、プレーしている選手が今どのように何をしているのか、それが知りたい」のにテレビはそこを見せてくれない。だから観ないというのではないでしょうか。
Q:実況アナウンスの内容も変わって来ました。昔のような「名言」が生まれなくなっています。
いろいろな理由があるように思います。まずアナウンサーの個性醸成に関してお話ししましょう。例えば、民放では各アナウンサーが個人事業主のようなあり方を求められます。「先輩が教えることことで亜流をつくるより、自分で努力して獲得した方法論が強い個性につながる」という思想が底流にあるといっていいのかも知れません。それぞれ自分のやり方を守ろうとします。その分、個性豊かなアナウンサーが生まれやすいのですが、成長するのに多少時間がかかります。一方NHKは、自分の実況能力も問われますが、どれだけ育てたかも評価の対象になります。育つアナウンサーは早めに仕上がるでしょうが、似たようなタイプが生まれやすいやり方です。民放とNHKとでは、仕組が違うのです。
「実況アナウンサーによる名言が生まれない」といわれましたが、テレビが実況中継の構造を変えてきたため、アナウンサーのための自由時間が減っていることも影響しています。昔は、画面の中に人をひきつけて止まないようなエネルギーのある映像素材が必ずしも多くありませんでした。ピッチャーの投球に始まって、そのボールを打ったとすれば、打球の行方が定まって動きが止まるまでが、見ている人をひきつけるシーンです。それから次の投球までは、これといって魅力的な動きがない。となると何か言わなければなりませんでした。今は、アバン(注:番組冒頭やタイトルの前に流す、番組知識を視聴者に与えるためのミニ企画)があって、音楽が鳴ってと素材が多く、試合に関わる人の具体的な話が当人の声で出て来てしまうので、アナウンサーの間接的な言葉が要らなくなってしまいました。ラジオも同様で、他球場の情報などをたくさん入れるようになり、実況アナウンサーの話す時間が少なくなっています。映像・音・情報の氾濫で、アナウンサーの自由裁量はききにくい時代なのです。
Q:これからテレビやラジオといった電波メディアとスポーツとの関わりはどうなっていくと思われますか?
技術的な革新がどう進むかによるところが大きいと思います。例えば、長友佑都選手はサイドバックなので手前にいる時には(中を向いている時間が長いため)顔が映りませんが、反対側だと顔が映せます。スタジアムでそうしたクローズアップを撮れるようになったのは最近のことで、ズームをかけてカメラを振ってもピントがずれなくなりました。さらに、国際回線の数が増えたこともあって回線の使用料が下がり、放送の頻度が上がりました。おかげでスポーツへの関心も増えたはずですが、今後それがどうなるでしょうか。
ひょっとしたらスマートフォンで自分の好きなアングルが選べるようになったり、マラソンなどの選手の生体情報が観られたりするようになるかもしれません。そんなものが出て来たら、アナウンサーは大変です。ますますディレクター主導の放送になっていくでしょう。昔は、アナウンサーが見ていた世界を、真っ白なキャンバスに描いた絵が音として伝わっていきました。でも今はキャンバスをなくし、向こう側をストレートに視聴者に見せる時代です。放送のやり方そのものが変わっているのです。
Q:これからの人々の関心をスポーツに向けるためには何をすればよいと思われますか?
ドイツでは、子どもたちの陸上競技大会を2013年から全国一斉に変えました。8歳以下、10歳以下、12歳以下に分け、たとえば短距離走ではそれぞれ30m、40m、50mにしています。それも、1年生と2年生を同じグループにいれ、成績は高学年になるまでは個人成績として付けるのを禁じています。年代が低いと、4月生まれの子と3月生まれの子との間にはとてつもない成長の差があって、個人記録で評価するやり方はなじまないと考えているからです。距離は、年齢とともに次第に大人に近づけて行きます。同時に、障害レースを必ず入れるように求めています。障害を跳ぶことが、陸上競技の基本運動と実生活にそれなりの意味を持っていることを知っているからです。ジャンプも入っていますが、ここにも一工夫があります。跳ぶ時には、着地点を距離で表すのではなく、点数を書いた円に向かって跳ぶようにしてあるのです。チーム対抗の形式の競技会にしていますから、チームが何点とれたのかが子どもたちにとっても興味の中心です。走り幅跳びで、2m10㎝と2m15㎝の価値の違いを問うより、3点と4点の違いとして現れた方が子どもにとって分かりやすいからです。
この陸上競技大会は、全部で3時間以内、週1回だけと細かく決められています。試合中には、「チームの獲得ポイントが常時確認できるようにすべし」として、クラブ対抗の形式の競技会の競争性を大切にしています。しかもこの仕様で、競技会はドイツ全土で行われているのです。
子供が1日1時間しか動いていないということは、社会とのかかわりが1時間しかないということです。不足しがちな社会性を養うためにチーム制にする。そんな工夫を日本のスポーツ界も考慮すべき時に来ているように思います。
子どもに向かって、「早く大人になってくれ」と日本のスポーツは叫び続けているのではないでしょうか。そういう発想が私たちの中に宿ってはいないでしょうか。私自身子どもの頃には「早く大人になりたい、大人のプレイがしたい」と願ったことがありましたが、いまのスポーツ先進世界は状況が違います。子どもには、子どもとして必要なものを提供する。大人への道は付けておきながら、その道を急がせない。大切なことだと思います。
翻って、魅力のあるスポーツをボールゲームのどこに見つけるか。それを子どもにどう提示するか。もっともっと追求しなくてはいけません。ドイツのようなやり方があることを知り、そうした視点でアプローチができるかどうか。その視点に立っている人はいるはずですが、日本中に広まっているのかどうか。ボールゲームに打ち込んでいる人は高いインテリジェンスを見せています。この世界から、スポーツの時代を画する方法論が出てくることを期待しています。
★山本 浩さん プロフィール
1953年 島根県松江市に生まれる。
その後、岐阜県、福岡県、静岡県、千葉県で生活。
埼玉県立川越高校から東京外国語大学ドイツ語学科卒業。
1976年 NHKにアナウンサーとして入局後、福島、松山、東京、福岡で勤務。
2000年 6月から解説委員。
2009年 3月 退職。
2009年 4月 法政大学スポーツ健康学部教授
アナウンサーとして、飛び込みの中継を皮切りに、野球、陸上競技、サッカー、アルペンスキー、カーリングなどスポーツ全般に携わった。実況で目立つのは、サッカー。W杯1986年メキシコ大会より5大会連続など合わせて350試合を中継した経験を持つ。
解説委員時代はスポーツを広い世界から俯瞰する立場に立ち、サッカー・大相撲・プロ野球の抱える諸問題、オリンピック、選手強化、スポーツのプロ化、タレント発掘、アマチュアスポーツ、指導者論、スポーツ放送論などに論陣を張ってきた。
スポーツアナウンサーと解説委員のキャリアを通して、アスリートや指導者、競技団体役員などに多くの人脈を築いている。 法政大学では、コミュニケーション論、スポーツメディア論などを講義。
この他、日本サッカー協会殿堂委員、日本陸上競技連盟理事、JTL日本トップリーグ連携機構アドバイザー、 日本体育協会国体委員、日本プロサッカーリーグ特任理事を務める。